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「自由」あるいは「かわいい」の監獄(雑感)

父 (「生きる」ということは)ルールさがしを目的にしたゲームなんだ。でもそのルールはしょっちゅう変わっているから、なかなか見つからない。

娘 でも、わたしはそういうの、「ゲーム」って呼ばないわ。

父 いや、パパはそれをゲームと呼ぶね。ともかく、「遊び(プレイ)」と呼ぶ。でも、チェスやカナスタみたいなゲームじゃない。仔猫や仔犬がやっていることに近いんだろうな。よくはわからんが……

娘 ねえ、パパ。仔猫や仔犬はどうして遊ぶの?

父 知らん。……わたしは知らんよ。

──グレゴリー・ベイトソン『メタローグ:ゲームとまじめなことについて』


「クラッキング」とは、猫の狩猟本能からくる興奮状態の際の行動である。ひとつ屋根の下で猫と「くらしている」人間が、猫に対して野性を垣間見ることのできる、貴重な瞬間のひとつである。人間はそれを尊いものとして観察する。なぜならそれが「かわいい」からである。

 だが、あの世界では、どんなにかわいらしい姿をしていようと、少しでも「凶暴な一面」が目に留まろうものなら、「擬態型」として討伐されかねない。

 鎧さんとちいかわ族との距離は、人間と家猫のように生易しいものではない。むしろ動物園の獣と管理人との距離に近い。ハチワレは猫ではないのだから、当然あのこも猫ではない。

 なにより、生身のちいかわ族に対する人間の「鎧」という隔たりは、動物園の「檻」を思わせる。人間と猛獣は「檻越し」にしか触れ合えない。子ライオンもアライグマも、「檻」という約束された安全のもとに「かわいい」と言える。

「かわいい」という価値観は残酷なまでに「檻の外(=鎧の中)」にしか存在しない。その証拠に、ちいかわ族は一貫して「かわいい」という言葉を発さないのだ(モモンガについては後述する)。

 それゆえにちいかわ族同士が入れ替わってもさほど大事にはならない。「かわいい」の監獄に閉じ込められているのはどちらなのだろうか。

「ココ」と「ココ」が入れ替わっても何も変わらない

 元々はでかつよであったモモンガが「かわいこぶりたい」のは、かわいい自分を「見てほしい」からでもある。

毎日それの繰り返し(=動物園の日常)が
「サイッコ〜に決まってるッ」

 そんなイレギュラーな個体であるモモンガに対して、それとは異なるかたちで「かわいい」を得た「カニちゃん」というイレギュラーがあてがわれたのは偶然とは言い難い。

 カニちゃんの振る舞いは、ちいかわ族でありながら鎧さん側に近いものと言える。ただし生身のちいかわ族当人でもある。カニちゃんは何にも守られていないし、縛られてもいない。なんなら自営業である。

 それゆえにモモンガとカニちゃんとの距離は、「動物園の獣と管理人」でも「ちいかわ族とちいかわ族」でもなく、「猫と人間」に最も近いものと言えよう。人間が愛猫に対して、無償の愛を注ぐのは至極当然のことである。

↑飼い主とペットの何気ない日常

 カニちゃんの姿は、カニのカチューシャが無ければ明かされることはなかった。このカチューシャは、ポシェットの鎧さんが「スランプ」の中で生み出した傑作である。

 ナガノ先生はカニちゃんを登場させることで、『ちいかわ』に新しい風を吹かせようとしたのかもしれない。

鎧さん「我ながらいい出来だ」
ナガノ先生「我ながらいい出来だ」
小出「マジでいい出来だ」



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