自分の道は開けるというより、残るものだ

自分の人生を生きてるようで生きていない感覚がある。隣の芝生が青く見えるというやつだ。

その芝生で活動することは気持ちが良いものか、私の新たな住処となるのか、気になるのだ。 

そしてこれは、足を踏み入れてみないとわからない。足を踏み入れず、情報を集めてジャッジできれば良いのだが私は苦手だ。やってみないとわからない。

そして、多くの人は同じように苦手だと思う。

今の情報社会は多くの人が自分の持つ情報をどう魅せるか凝らし、良い面だけを見せる。芝生がより青く見えるように色を塗る。青色の芝が栄養たっぷりの若葉なのか、塗装された枯葉なのかは、見るだけではわからない。つまり、質の高い判断材料となる情報はなかなか落ちていないのだ。

こんな優柔不断にさせてくる世の中で、よそ見せず自分のやるべきこと/やりたいことに専念する最短ルートは、実際に隣の芝生を踏んで確かめることである。「やってみる」が一番大切だ。

実際にやってみると高確率で理想とのギャップに苦しみ痛い目を見る。お金を失い、げんなりすることも多い。とっても多い。

だだし、必ず大きな収穫が得られる。必ず正確な情報が得られ、二度と同じ芝に惑わされることがなくなるのだ。

きっと身をもって体験しなければ、いつまで経っても隣の芝が気になって仕方なく、自分の庭を本気で育てようとはしないのだ。

本当に無駄なのは失敗した経験でも、失ったお金でも、そのお金を稼いだ頑張りでもなく、あの芝を羨ましく思っている時間だ。

羨ましいと思ったなら、気になって仕方ないなら、それが向き不向きに全く関係なく解消すべきだ。でなければ迷う時間を断ち切ることができない。

枯葉に騙される経験は全く無駄ではない。
一度騙されないと、騙されない人に成長することはできないし、何よりやっぱり迷いが減って自分の人生を生きられる時間が長くなる。

失敗は恐れなくてもよいが、気になることを確かめずに見過ごすことは恐るべきだ。そんな事態にならないように、気になることには手を出してみるべきだ。

夢や人生など大義名分が後ろに控えている必要はない。気になったらどんな些細なことでもな確かたら良いのだ。

そうしていくと、自ずと自分の道が開けるはずだ。開けるというより、元々ある沢山の道(可能性)の中で自分が最も生きやすい道だけが残るというようなイメージだ。

私自身、この生き方が本当のところどうなのかわからないのだけれど、自身の些細な気の向くことに目を向け、解消していく。

失敗ばっかりだったと大笑いできる、右往左往の人生を歩んでいく予定だ。

追記
道が開けるというのは、パァっと運命の道が光って見えて、これだ!という感覚が走るようなファンタジーなイメージしか持てず具体的に行動に繋がらない。対して、道が残るというのは、広い雑草だらけの庭で花を探すようなもので、雑草を抜いていけば素敵なお花が見えてお水をやるべき場所がわかるよねっていうイメージだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?