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恥部すぎる高校の卒業文集全文公開

年末の大掃除で高校の卒業文集が出てきて、これを読み返したんですが、内容がとんでもない。おとなしく修学旅行の思い出についてだとか、仲が良かった友達について書いておけばいいものの、芸術評論(笑)をかましていたのです。前のめりすぎる18歳の頃の私の恥部を御覧ください。

全文

耽美主義。「美に最高の価値を置き、これを芸術の目的とする立場」。これは辞書にある耽美派についての記述であるが、これには一つの重要な耽美派の特徴が書かれていない。耽美派は美に最高の価値を置きながら、それが破滅する時間を好むのである。オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」では、無垢な美少年が悪徳に屈服し、自らを滅ぼすまでの過程を描いている。三島由紀夫は「金閣寺」において、住職の少年がそれを放火するまでを描いている。これらの小説はいずれも一つの巨大な美が滅びる小説である。

音楽と小説に使われる「ジャンル」という言葉が意味する領域は大きく違う。「ロマン主義」というジャンルは音楽、小説の双方を形容することができるが、小説においての「ロマン主義」が意味をするのが「思想」であるのに対し、音楽においての「ロマン主義」が意味をするのは「時代」である。つまり、ロマン主義の小説を書くというのが、「ロマン主義」の思想を持った小説を書くことを意味するのに対し、ロマン主義の音楽を作るというのは、「ロマン主義」が興隆した時代の音楽を模して作るということを意味するのである。

私は主に小説において使われる耽美主義を音楽にも使えるのではないかと考えている。音楽には普通、耽美主義というものは存在しないが、小説におけるこの解釈を転用すれば、新鮮な作品を生みだすことができるのではないか。

私がこの考えを持つようになった理由は、世間で言われる耽美はの小説を数冊読んでから、自分が最も好きな音楽である六十年代のサイケデリック・ロックに戻ってきた時に、それらの小説と共通する強烈な唯美的エッセンスを感じたからである。

六十年代のサイケデリック・ロックはヴェトナム戦争を背景に若者の反発と将来の不安、そしてドラッグによって生まれた音楽であるが、恐らくこれらの要素が破滅的で享楽的である耽美派小説との間に共通的なものを感じさせた理由であろう。しかし、これらの時代の音楽家たちは小説におけるジャンルを音楽に用いてみるという意志を持って作曲したわけではないだろう。

これらのことから、私は音楽は(ママ)小説のジャンル、考え方を用いて創作することが可能であると思うのだ。

今日では、CD売り上げの減少や、新しい分野が開拓されないことから、音楽はマンネリに陥っていると評されることがあるが、この手法が新しい音楽の創造法になり得るのではないか。少なくとも、私自身の大きいインスピレーションにはなりそうである。

以上で引用終


文字に書き起こしていて、冷や汗が出ました。この18歳はとにかく鼻息が荒い。十代の少年には劇薬すぎる、耽美派小説を読んで芸術的衝動に駆られまくったのでしょうか。「CD売り上げの減少、新しい分野が開拓されない」なんて音楽の未来を憂いていますが、当時はQueen of the Stone Ageも元気だし、WilcoのYankee Hotel Foxtrotリリースからそんなに年数経ってないし、前年にIn Rainbows出たばっかりだし、J DillaのDonutsもこの辺りです。ちょっと懐古主義的な感性に根ざした感覚を当時は持っていたのでしょう(非常に恥ずかしいポイント)。ただこの少年の音楽に対する情熱はホンモノだったはず、、

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