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Plain Music Plain Feels

このテキストは「プレインミュージック(Plain music)」に共鳴し尊重しつつ拡張する意図をもって書いた。従ってまずプレインミュージックとは何かについて明示すべきだが、この点は提唱者であるfendoapさん(@seitokisoukari)による網羅的な記述に加える又は省くべきところは思い当たらない。従ってプレインミュージックについてはまず次項「Plain music: 平易性と簡易性」冒頭に紹介するfendoapさんの記述を各々参照して欲しい。


Plain music: 平易性と簡易性

本項はプレインミュージックへの共鳴と解釈についての記録を目的とする。プレインミュージックとは何かという点は上記提唱者fendoapさんの記述を参照して欲しい。

自分にとってプレインミュージック共鳴の最大のポイントはコンセプトの平易性と簡易性だ。即ち行為者が主体的に平易且つ簡易であると受け止めて自律して表現に取り組むことができるリゾーム(rhizome)構造とその柔軟性に共鳴する。プレインミュージックにおける主体の位置づけは表現環境の理想ではないかと私は受け止める。そのハードルを下げるのは、あるいは上げるのは行為者の自覚的な価値観そのものだ。それはリゾーム構造自体の柔軟性の一方で行為者に対してはある種の自律と所在を求めるものかもしれない。すなわちなんらかの判断が伴うものであろう。つまり平易且つ簡易ではあるが無条件ではない。その条件を行為者自らが設定することになる。また同時に行為者は主体性の背景たる社会や歴史又は教育との密接不可分性を受け入れる事になる。尚、行為者は個人または集団いずれの場合も考えられるがどちらにせよ背景を受け入れた上で自らの主体性に自ずと向き合う事になるだろう。

これらの一連のパーソナルな領域での行為にプレインミュージックが内包するロマン主義的な側面を垣間見る。そして同時にシェリングを起点として加速発展した”Music is liquid architecture; Architecture is frozen music.”(音楽は流れる建築、建築は凍れる音楽)という詩情溢れる言葉を思い出す。プレインミュージックの主体的、ロマン主義的行為は、シェリングのポエティックに定義された音楽の流動を加速させ、未到達性の世界に扉を開くだろう。その様相が浮かび上がる。プレインミュージックが持つこの視座に大いに共鳴する。


Plain Feels: リゾームと拡張

本項はプレインミュージックの具現化についての記録を目的とする。前項の解釈をどのように広げるかという点についてコンセプトを踏まえて実践してみたい。

「Plain Feels 001」は自分にとってプレインミュージックの出発点だ。自分が考えるプレインミュージック拡張のポイントはコンセプトの未到達性だ。これはオリジネイターのプロセス重視の視点を自分なりに解釈したものだが、未到達性とは例えば日々綴られる日記のように、あるいは日々表情を変える方丈庭園のように到達点を定めないものを想定している。そのような考えの下、Plain Feelsは001を出発点とした。今は001に埋め込んだ表現の諸要素が地下水脈を通じて連続的に広がるイメージを持っている。それはリゾーム構造の毛細部分にあたるかもしれない。また不可逆的ではないという意味でここから時間軸を遡ることも場合によっては可能かもしれない。すべては行為者自らが設定することになる。この動画に添えた説明欄のテキストに本作のプロセスのうち思想的要素や技術面以外の設定ポイントを明示したので必要に応じて参照して欲しい。

この後、どのようにリゾームが拡張するかについて現時点では予測が難しい。行為者が自身に対して本作へのランダムアクセスを許している為だ。またリゾームの拡張がプレインミュージックの拡張につながるかについても同様に現時点では予測が難しい。上述の「自らの主体性に自ずと向き合う事」がプレインミュージック線上の出来事と言えるのかは、言葉を選ばずに言えば「やってみないと分かんないかなー」と感じる為だ。しかし提唱者であるfendoapさんが言うところの「プロセスを探求する機会」には確実につながる要素ではないかと受け止めている。その上で私は自身のPlain Feelsリゾームを紡いでいくことが結果として拡張につながるのではないかと考えている。

「Plain Feels 001」を出自にした拡張についてひとつ実例に取り組んでみた。ここではまずPlain Feels 001から005までのオリジナルトラックを揃えた上でそれらをレヴィ=ストロースの交差(Cross Cousin Marrige)を意識してミックスしている。各トラックはすべて15秒だが交差は複合構造と音楽的背景から15秒づつの均等ではない。ただし全体としては75秒におさめている。

プレインフィールズ(Plain Feels)は、15秒単位の出自を元に交差するため、オリジナルトラックは全て15秒におさまる。001をルーツにしつつ伝播するオリジナルトラックの群衆から適者交差が行われることになる。

016_026は、同じ出自から2種類の交差を生成した。


Plain Notes: どこへ向かうか

本項はプレインフィールズにおける音の連なりと連鎖についての実践経過の記録および現時点の課題の記載を目的としている。コンセプトの未到達性については上述の通りだが、本項もプレインフィールズの結論を記すものではない。ただしプロセスや課題はその後の方向性を示唆する可能性がある。

まず001からスタートしたリゾーム接続可能習作は041まで到達した(註:2024年1月6日時点)。001を出自とする交差は第1世代のみ、同様の手法で036.1_037_038_039_040_036.2まで実施した。この時点ではリゾームも交差も深化したとは言えないだろう。フラクタルであれば、(𝑥0,𝑦0),(𝑥1,𝑦1)を結ぶコッホ曲線の一本の線分を一回置き換えただけ、すなわち部分と全体の自己相似は一回の回帰で確認できる状態を予想できる状態だ。なお、たとえば036.1_037_038_039_040_036.2と、011.1_012_013_014_015_011.2は、まだ交差していない。すなわちコッホ曲線化も出来ていない状態とも言える。

リゾームは横断的に接続可能であり、これらはより多くの線分が交差接続できるはずである。接続を容易に実現すべく一定の音楽性を保つためにBPMとキーを保持した上でそれらはすべて統一した。また初期的には波形はすべて同じだ。現時点では第1世代曲線の置き換えのみ実践しているが、第2世代への置き換えも視野に入れてもいいかもしれない。

一方、001からはじまる出自オリジナルトラックについては、プレインフィールズ固有ではなく純粋にクリエイティビティにおける作品制作と継続性の課題を抱えている。交差はフロー、出自はストックという見方ができるかもしれない。デウスエクスマキナ的解決手法は見当たらず、出自ストックの生産継続は交差フローにとって必須条件なのかどうかがまだ見えてこない。


Plain Music Plain Feels

プレインミュージックに共鳴し尊重しつつ拡張を試みるにあたり内面の動き、思考回路に着目するところ、”プレインフィールズ(Plain Feels)”をその自身の仮想フィールドにしてみたい。

プレインミュージックのリゾーム構造の柔軟性の一例として初期衝動とエンターテイメントのメタ視点からの解釈説明をベースにしたプレインフィールズを作成してみた。解釈説明においてリズムが必要条件として示されているが、本作においても同様にリズムを必要条件と捉えたため通常のプレインフィールズに加えて指定されたリズムを追加している。プレインフィールズではBPMの概念を楽曲に取り込んでおり且つそのBPMを統一しているため、一定のビートを前提にしたリズムとの親和性は高いものと推測して本件に取り組んだ。

一方で、具象との交差を試みた。ここではプリン的なるものを主題にしたプレインフィールズを試みた。具象の音への変換に際しては平易性について捨象せざるを得ない側面があった。一方で音楽という切り口からはあらたな可能性があるようにも感じる。平易性と音楽とのバランスは課題になろう。


Exploring Methods and Concepts: 想像と未到達性の体現について

プレインミュージックの提唱者であるfendoapさん(@seitokisoukari)による取り組みを網羅的に聴くことができる作品がリリースされた。

本作(Plain Music: Exploring Methods and Concepts)は聴き終えても止むことがない。ここに収録されていない(しかし収録されていてもまったく違和感のない)プレインミュージックへの想像が止まないためだ。まさにコンセプトの未到達性とプロセスの探求を体現しているといえる。解説を部分引用するとそれは「良い意味でのシンプルさやミニマリズムを特徴とする音楽の総称である。再生しやすさ、素直さ、控えめさ、気取らないこと、親しみやすさといった特徴が含まれる」。あまりに透明で見過ごされてしまう可能性のあるものへの眼差しを総称する試みだ。

一例としてのノイズボックスやアナログ矩形波オシレーターはその制作手法のシンプルさに話が及ぶがこの視点は重要な示唆といえる。誰もがアクセス可能な世界において、決心すれば音を一から組み立てることができ、決心すればそれらは音を奏で、透明さを保ったまま、親しみや時にユーモアも持ちつつ、発せられた音はやがて人々の耳に届く。耳に届き、さらにその先の止まないプレインミュージックへの想像までかきたてる拡張性は時に曖昧さを誘発するが優れたコンセプトが既に曖昧さをも内包している。