社会人選考で哲学科へ進学します

なぜこのnoteを書くことにしたのか

普通、こういう文章は「きっとキャリアに自信があるんだろうな」と思われるような方が書く印象ですが、私自身のキャリアには恥が多い、というか、むしろキャリアを捨てている感があります。なので、耐えられなくなったらこのnoteは非公開にするかもしれません。

では、なぜ頼まれもしないのにこんな文章を書いているかというと、多少身を削ることによって、同好の士を見つけられるかもしれないと考えたためです。タイトル通りなのですが、この春から哲学の修士課程へ進学します。社会人選考なので、学部からの仲間などはいません。それどころか、そもそも哲学系の出身ですらありません。このままだとエルデンリングみたいな難易度の学生生活になりそうだな……と思い、とりあえずTwitterの公開アカウント(@ltPhilosopher)を開設してみました。その自己紹介としてこのnoteを書いています。どうぞよろしくお願いします。

学部時代

まずは──早速最大の恥なのですが──哲学科を受験した動機と遠くの方で繋がっている、学部時代の問題意識をどうにか言葉にしてみます。いまだに上手く言語化できないのですが、人が生きる時間の流れには密度のようなものがあって、生きている感じがとくにする瞬間と、なんだか死んでいる感じがするときがある、そのような感覚があります。たとえば子どもの頃、金曜ロードショーでジブリ映画を観ているとき、五感と脳のすべてを使って生きている感じがしました。どこかで加藤幹郎が「好きな漫画を読んでいる時間は、それに没頭して、一秒が一秒でなくなるような『愛の時間』となる」みたいなことを書いていた記憶がありますが、その感じに近いかもしれません。それから、眠くて疲れて吐き気がする満員電車での通学時間は(最近はコロナで無縁になったのでしょうか)、もちろん生きてはいるものの、とても生きているとはいえない、なんだか死んでいるような感じのする時間でした。

こうした感じの構造はどうなっているのだろう、というのが、学部時代の問題意識でした……我ながら、風船みたいに膨らむばかりでみっともない、とても研究の種にはならなさそうな感想文だと思います。ともかく、そのような(問いとはいえない)疑問を抱きながら、所属するゼミを探しました。まず「心理学の先生なら何か知っているかもしれない」という短絡的な発想から、社会心理学ゼミの門を叩きました。それから、私の大学ではゼミの所属を二つまで許されていたので、「文学の先生も色々詳しいだろう」という同様の短慮から、米文学ゼミにも入りました──ちなみに、私の大学には文学部がなかったため、そのようなゼミを選ぶ学生はそもそもレアだったのですが、そのマイナーゼミは少人数どころか、入ってみたら私一人しかいませんでした。しかも4年に上がってしばらくして、先生は急逝されてしまいました。悲しみの中先生の遺作をAmazonでポチると、そのゼミでやった宮崎作品批評が載っていて、予期せぬ再会に固まりました。

卒論の時期になると、指導教員から「個別の作品批評か、文学寄りの受容研究か、メディア・スタディーズ寄りのオーディエンス研究か、どれかに位置づけなさい」とご指導いただき(どこが社会心理学ゼミ?)、どれも何か違うな、とサーベイを続けていたところ、ジオルジ(2009=2013)『心理学における現象学的アプローチ』にピンと来ました。

……というのは錯覚で、結局卒論はベンタブラックよりも暗い黒歴史になってしまいましたが、とにかく私は「好きな映画を観るという経験の現象学的心理学的記述」を試みた文章を提出して、学部を卒業しました。

就活と社会人時代

そんな真っ暗な卒業研究しかしていなかったのですが、大学には5年間いました。それは卒論が難産だったから、というよりはむしろ、就活に失敗したからです。とりあえずは新卒で就職するべく、パンフレットだけなら100社分は集めたのですが、「週35時間以上捧げても良いと思える仕事が見当たらない」と絶望し、なんとなく5社ほど聞いたことがある企業を受けて全落ちした挙句、「やりたい仕事はなさそうだから、せめてやるべき仕事をやろう」と、醤油皿よりも浅い覚悟で公務員をめざしました。留年するとしてもそこから国家総合職に受かるのは現実的でなかったため、目標は都庁です。当時は、筆記さえ通れば面接は7割方受かる、しかもその年は定員増で「今年は天国です」と予備校講師も太鼓判を押していました。で、筆記に通って面接で落ちました。普通にトラウマです。

というわけで急遽就活を再開し、エクセルさえ触ったこともなかったのになぜかIT企業から内定を貰いました。これだけ野放図に生きていてもそれなりの企業で正規雇用の職を得ることができたのは、偏に私をそれなりの大学へ放り込んでおいてくれた親のおかげであり、頭が上がりません。

その後、あまり待遇が良くなかったので3年ほど働いてから外資系へ転職しました。分野的には、今流行りのAIやIoTといった領域です。文系上がりなりに勉強しながら勤めてきましたが、「機械学習やるなら、統計学や数学も当然押さえておこう。クラウドや分散処理みたいな基盤知識も必要だよね。モデルだけじゃシステムは組めないから、通信周りやWebアプリの知識も必須です。すべての専門家になるのは厳しいから、どこかの領域について修士以上の専門性を持ち、強みを活かしてサバイブしていきましょう」という具合に、(確かGoogleのエンジニアが作った)曼荼羅みたいに広がっているスキルロードマップを見て心が折れました。あまりに範囲が広いから、というだけではなく、実際にそうして頑張っているメンバーが多く、それが誇張なしの真実であると実感してしまったためです。

そうした環境での生存戦略は二つに一つであるように思えました。一つは、営業・マネジメント周りのスキルに極振りし、口八丁で生きていくこと。これはなんだか不誠実だし、腕がない以上やはりジリ貧な気がします。もう一つは、謙虚に自らの無教養を受け止め、休日も勉強に充てて誠実なエンジニアとして働き続ける道です。やりたいことではないかもしれませんが、やるべきことではあるでしょう──なんだか死んでいる感じがしますが。

院試前後

こうして、人はどういうときに生きていると実感し、どういうとき死んでいるように感じるのか、という問題意識が、学部時代よりもやや切実な形で蘇ってきました。とはいえ、それを適切な大きさの問いに落とし込むことができず、ほぼ全面降伏したという苦い過去が私にはあります。気づけば社会人7年目を迎えていました。

転機が訪れたのは、信原(2017)『情動の哲学入門』を読んでいたときです。

たとえば、次の一節。

こうして結局のところ、価値判断には情動が不可欠である。情動がなければ、世界の価値的なあり方を知ることはできない。情動は私たちにとって世界の価値的なあり方への唯一の窓である。それは価値認識の究極的な源泉なのである。(信原 2017: 50)

「こうして結局のところ」が指す議論のすべてに説得されたわけではないものの、こんな問いを扱える領域があったのか、と衝撃を受けました。文学だ心理学だ社会学だ、と色々手を出してきましたが、恥ずかしながら情動の哲学と、それを含む心の哲学という領域の存在を私は知りませんでした。そこでまずは日本語で書かれた関連書籍を読むことになります。たとえば、哲学系の定番教科書をいくつも執筆されている戸田山先生の『恐怖の哲学』や、

(本当に読めているのか怪しいですが)プリンツ(2004=2016)『はらわたが煮えくりかえる』などです。

これらを読み、社会人選考(レポート+面接)で大学院を受験し、どうにか合格して、今進学を控えています。

ご縁があれば、よろしくお願いします

このようなわけで、春から二年間(の予定)、情動の哲学を中心に勉強・研究します。とにかく、基礎学力が足りなくて焦っています。なにせ、先月ようやくライカン(2005)『言語哲学』を読了しました(一周回って、4月が来てほしくないです)。とくに、哲学分野で卒論を書いていないため、課題設定から始まる一連の議論を言語化する経験が乏しい点を最も問題視しています。おそらく、情動による評価をめぐる諸問題がテーマになるので、まずは卒論代わりに何か一本書く、というのが進学後当面の目標になります。

これを読んで「これからどこかで接点があるかも」と感じていただけた方がもし、もしいらっしゃれば、Twitterをフォローいただけると嬉しいです(@ltPhilosopher)。どうぞよろしくお願いします。

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