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『鬼滅の刃』を100倍楽しむ裏知識!

こんにちは!熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です!


今日はメインサイトで投稿した内容『『鬼滅の刃』技名、呼吸名、柱、十二鬼月等情報一覧|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー』に詳細情報を加筆し、完全アップデートした形でお送りします!『鬼滅の刃』を100倍楽しめるような知識が満載です^ ^


なぜ舞台は大正時代?

そもそも鬼ってどんな存在??

なぜ藤の花の毒が鬼に有効なの!?

etc.


こういった裏知識を知ることで『鬼滅の刃』ワールドがさらに深く「なるほど!」って感じで楽しめるようになりますので、是非お楽しみ下さい!


それではスタートです(^ ^)b!!!


『鬼滅の刃』の裏設定を大予測!ガチで考察してみた!

今回の内容は『鬼滅の刃』の作者である吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)さんが込めた正式な裏設定ということではなく、あくまでも私が調べていく中で「これがそうではないか!?」と思うものをまとめてみた内容です。なので漫画コミックに掲載されている内容そのものは今回含めていません。


ですから、作者の思いや設定と一致するところもあり、一致しないところもあると思いますが、周辺知識をさらうことでも内容を深みのある形で理解できるようになると思うので、そのようなスタンスでご覧いただけたらと思います。


なお、今回の裏知識は結構ガチめに考察していた結果行き着いた知識です。性格柄、調べ始めたら結構本気になってしまうので多少真面目すぎる内容になるかもしれませんがご了承下さい^ ^;


『鬼滅の刃』ストーリーの前提①大正時代はなぜ選ばれたか

まず全体を貫くストーリーの前提の話ですが、全体的な構図としては鬼殺隊と鬼との抗争です。舞台は大正時代。


大正時代は1867年の大政奉還で終えた江戸時代、大正元年〜大正15年、期間は1912年〜1926年の15年間という短い期間なのですが、考えてみれば今からちょうど100年前の世界ということになります。この時代はかなり大きな出来事がいくつも起きているめまぐるしい期間です。


例えば1914年には第一次世界大戦が起きています。日本は直接的な関わりはなく貿易で貢献したので、その結果好景気に沸きました。ここでの貢献もあり、1920年に発足した国際連盟には常任理事国として参加しています。


大正末期の1925(大正14)年にやっと普通選挙法が成立し、満25歳以上の男子だけに選挙権が与えられたというのも特筆すべき大事な出来事ですが、一方で1920(大正9)年には箱根駅伝の第1回も開催され、ベルギーで開催されたアントワープオリンピックでは日本人選手がテニスで銀メダルを獲得して日本初のメダル獲得に日本全体が熱狂していた時代となります。ここまで認識すると何だか鬼滅の刃の世界観と相容れない感じがして違和感ですよね(笑)ちなみに1923年には関東大震災がありました。


それに1894年の日清戦争、1904年の日露戦争も終えた後の時代ですから、炭治郎たちの描かれ方は結構古めな設定です。特にストーリーの始めの炭治郎たちの生活は、人里離れた山奥で炭を売って過ごす貧しい生活環境であり、あまり江戸時代のそれと変わりがないようにさえ見えます。


それに現代でもなお問題視されている児童労働が真っ向から描かれている点。確かに家長相続制だった当時は、長男は教育を受けるよりも家を支える存在、家業を継ぐ存在としての見方が主流だったので、まだ少年ではあれど炭治郎が重労働を毎日こなさざるを得ないことを受け入れていた感はあります。


そもそも父親のいない4男2女の家計を支えるために行う炭売りの仕事はかなりハードです。木炭を作るにはその約3倍もの重さの生木を切る必要がありますから、自分を含めた家族7人を支えるだけのお金を木炭を売って稼ぐには相当な量の木を切ることなります。切る、運ぶ、炭にする、人里までまた運ぶというのが、皮肉にも鬼殺隊に必要な素養を育てていたということです。


時代背景的には炭売りという仕事が国民の生活を支えていた時代でもありました。刀を打つための鉄を溶かすことにも炭が必須でしたから、竈門家の職業が生活基盤を支える大事な仕事を行なっていた半面、炭治郎の人望ゆえに直接取引が可能であったということが伺えます(炭が国家の大事である以上、その販路は整備されていたはずですから、竈門家が中抜きなしで顧客に直売りできたのは例外だった可能性があります)。


こうしたことを踏まえても、ではなぜ『鬼滅の刃』がその舞台を明治時代ではなく大正時代なのか。


それこそ同じジャンプ掲載漫画であった『るろうに剣心』や『銀魂』、『ナルト疾風伝』などの和テイストの漫画と比較しても、大正時代という選択は珍しいものです。隊服などのイメージは完全に新撰組ですし刀を不自然なくメイン使いするには幕末〜明治でしょう。そこをあえてスライドさせて大正時代を選んだのは、自由が大きく前進した


「大正デモクラシー」


という風潮と、ノスタルジーを思わせる


「大正ロマン」


という独特な世界観が作品の世界観とマッチしたからかも知れません。何より他の作品との差別化を図る意味でも江戸時代や幕末、明治時代を選ばなかった理由かも知れません。


『鬼滅の刃』ストーリーの前提②潜在的な感情性

この作品がここまでヒットした理由の1つはファン層に女性を取り込めたことにあると思います。


ジャンプはあくまで少年誌ですから、あまり女性に馴染みのない媒体です。大ヒットとされる『ワンピース』でさえ、あまり女性の多くに読まれている印象はありません。ですから想定される購買層は本来男性がメインだったはずです。それが今回は男女分け隔てなく全体に求められている点がヒットの理由になりそうです。


ディズニーが女性をターゲットにしているように、カップルにしても家族にしても、女性をファンにできればそれだけ男性や家族も一緒に動いてくれるという力学があるので、これまでヒットしてきた『ワンピース』に比べても、女性までその人気を広げることができたのは大きいでしょう。


では何がそこまで女性を引き寄せたのか。


まずは竈門炭治郎という主人公の中性的なキャラクター。ルックスも声も性格も、人望の厚いキャラクター像が女性にも馴染みやすいものだったと考えられます。


また、登場する女性キャラクターが総じて強い。


女性は守られるものだという概念を超えて、男性と共に肩を並べて戦う存在として描かれているのは大きいと思います。鬼にさらわれ襲われる女性が描かれる一方で、それこそ鬼と化した禰豆子を守るために戦う兄というガーディアン要素はこれまでのジャンプの王道設定としても、その守られる対象である禰豆子も同じく兄を助けるために全身血だらけになって戦う。これは胡蝶しのぶも栗花落カナヲも甘露寺蜜璃も、目立つ女性キャラクターは皆「戦士」として描かれている点でも、女性がこの作品を受け入れやすい要因になっている気がします。


また、この作品の根底にある「悲しみ」。


実はこの作品に登場する鬼も、それを退治する鬼殺隊も皆、その根底には「負の感情」があります。鬼も単に鬼として生まれたわけではなく、鬼になるだけの悲しい出来事や過去がある。鬼になりたいと願った理由があるわけです。


また、鬼殺隊に入るような人間たちにしても、そこで柱になるほどまでに強さを求めた者たちの感情的な動機は、家族や大切な人を殺されたことに対する鬼への恨み、怒り、憎しみです。


つまりこの『鬼滅の刃』の原動力は「負の感情」なのです。


そして作画的にも、人が死んだり首が飛んだり血が飛び散るなどのグロい描写が頻繁に登場します。劇場版もPG12とされているように、12歳以下の子どもたちに観せるには残酷的なシーンが多く盛り込まれすぎている。でもこのヒット。


人には、平和を望む半面、戦争への憧れもあります。本当に平和こそが純粋なる理想であれば、暴力的な漫画、残酷な描写が頻発する漫画が受け入れられるはずがありません。しかしヒットする少年漫画にはもれなく暴力が描かれる。波風が立たないと「平和」が存在し得ない道理、正を実感するには負の存在が必須であるというバランス感覚なのだと思います。これをあえて描いてみせた作品ということがヒットした理由の1つと言えそうです。


あとはアニメ化された時のクオリティの高さゆえだろうということ。これは別の記事にも書きましたので今回は割愛します^ ^


なぜ鬼の弱点は藤の花なのか

ではより作品に近い部分を掘り下げていきましょう。鬼の弱点についてです。


『鬼滅の刃』の中で描かれている鬼については、その弱点が太陽の光と藤の花であることが語られています。実際に陽光に当てられると鬼は消滅しますし、藤の花には近づけないという描写がいくつもされています。


太陽に弱いという要素は吸血鬼に、藤の花は狼男に対するシルバーブレッド(銀の弾丸)を思わせるものです。鬼が人を食らうことで生きていくものという設定は吸血鬼を思わせるので、設定として採用されていると考えられます。鬼である珠世さんが人を食うことなく輸血と称して血をもらって生きながらえていることから、人を食らうことそのものではなく、人の生き血が鬼の生存に必須なものであることが伺えます。つまり、人を食わずとも血が飲めれば生きていける。この点が正に吸血鬼と同じ。


何より「血」が鬼にとって重要な要素だと言える理由は、鬼の技名が「血鬼術」であるということ、鬼が増えるには鬼の血が混入すればいいこと、さらには鬼化した禰豆子が最初に発動した血鬼術が「爆血(ばっけつ)」だったことなどからも分かります。珠世さんが鬼の血を分析しているのもそういう理由です。


ということは、鬼で在るためには血が重要であり、その血中の特殊な成分を分解されると鬼は人間に戻る(鬼でいられなくなる、鬼としての特殊能力を失う)という理屈が考えられます。それを可能にするのが藤の花ということです。


ではなぜ藤か。ここにはいくつかの理由が考えれます。


まず藤の花は日本古来の花であること。それこそ平安時代に栄華を極めた藤原氏を想起される方もいらっしゃるでしょう。その栄華にあやかって加賀の国の藤原氏は加藤、伊勢の国の藤原氏は伊藤、と地盤となった国の名を取って家名を受け継いでいったほど、日本人の苗字にも多く採用される文字でもあります。佐藤さん、斎藤さん、安藤さんもそのように広がったのでしょう。


このようなことがあって「藤」という字に日本人が抱く印象は古くから優雅なものです。香りが強く、たおやかに咲く藤の魅力が女性らしさの象徴とされ、古くから振り袖姿の女性にも例えられます。だからこそ鬼化してもなお人間味を残すキャラクター禰豆子や珠世さんは振袖姿で描かれるのですね。


漢字そのものにも「上にのぼる」という意味があることから、鬼を成仏させるという意味を掛けているのかも知れません。「富士」や「不死」にも連想させる縁起の良い言葉ですから、藤の花が鬼に有効だという設定は大正時代という時代背景にも溶け込みます。


ちなみに男性らしさを表すとされる植物は「松」です。だから主人公である炭治郎の羽織は「松」の緑と「炭」の黒の市松模様なんですね。


さて、藤の花に魔除けの効果があるという描写についてですが、これも設定上の話である可能性があります。例えば藤の花の毒について。これは事実のようです。花びらは天ぷらにしたりして食べることもできますが、食べ過ぎると吐き気、下痢、めまい、胃痛などを起こすことがありますし、種子や樹皮には特に中毒を起こしやすいレクチンを中心とした配糖体の毒性があるそうです。


また藤の花は日当たりのいい場所を好み、強い日差しのあたる、日当たりのいい場所を好んで咲きます。つまり太陽の光を存分に浴びて育つ植物であるということです。これは陽光を嫌う鬼にとって不吉な植物とされる理由になります。


ということは、藤の花そのものに、というよりも、陽光を存分に浴びて育つ植物だから鬼には困るもの、と言えそうです。


何より鬼を滅するためにはただの刀ではなく日輪刀で斬らねばならず、その日輪刀は太陽に最も近いと言われている陽光山で採掘される「猩々緋砂鉄(しょうじょうひさてつ)」「猩々緋鉱石(しょうじょうひこうせき)」という特殊な材料で作られます。つまり鬼の直接的な弱点は陽光から得られる成分だと分かるわけです。


だからこそ陽光を克服することこそが鬼舞辻無惨の悲願であり、それを見事克服した禰豆子は喉から手が出るほど欲しい対象と言える、ということです。


鬼とはそもそも何なのか

それでは順番が前後しましたが、そもそも鬼とは一体どんなものなのかについて掘り下げていきましょう。勿論『鬼滅の刃』の中で取り扱われる鬼のイメージです。吸血鬼の要素が多く取り入れられる存在ですが、まずは大前提としての鬼の設定から見ていきましょう。


中国では、鬼は死んだ人の魂そのもので、姿かたちのないものとされていました。現在日本でイメージされている姿かたちのある「鬼」は、仏教が由来になっており、餓鬼道にいる「餓鬼」や「地獄の獄卒」のなどの事とされています。角が生えて大きな牙を持ち、虎柄のふんどしを付けて金棒を振り回すイメージは、地獄の門番の仏教的な描写から来ているのです。


さらに言うと、仏教はそもそもインド発祥ということもあり、鬼の起源にはインドの神話要素がふんだんに取り込まれています。古代インド神話に登場する鬼や神が仏教世界に溶け込み、日本の神道と融合しながら日本古来の鬼を形成していきました。


そんな「おに」が日本に入ってくるのは平安時代のこと。当時はまだその呼称はなく「もの」と言われていたものが、「姿の見えないもの、この世ならざるもの」を意味する隠(おぬ)という言葉が転じて、鬼(おに)に変化したと言われています。


ちなみに「鬼」という漢字は、中国では鬼を死者の霊魂のことを指すように、もともと死体の象形文字だったようです。この『鬼滅の刃』の世界では人ではいられなくなった「人あらざるもの」というニュアンスでしょうか。人としては死んでしまった存在ということかも知れません。そう考えると禰豆子に申し訳ないのですが^ ^;


そんな鬼に関して日本で古来から存在する伝説としては


・酒呑童子(しゅてんどうじ)

・天邪鬼(あまのじゃく)

・夜叉(やしゃ)


などがいます。典型的な人をさらって食う鬼です。酒呑童子についてはワンピースのワノ国編でも登場しましたね。


鬼舞辻無惨と十二鬼月の裏設定

今回の作品の中ではラスボス鬼舞辻無惨と、その下に特に強い12人の鬼が十二鬼月として登場します。鬼月という名称も陽光と対を成す「月」を使用した名称ですね。


まずこの12人の鬼神という設定はおそらく、安倍晴明と12人の式神から来ていると思われます。


安倍晴明は平安時代に存在した陰陽師です。陰陽師とは、古代日本律令制度において陰陽寮という役所に所属している人たちで、天文・気象・暦・卜占などを扱っていた人たちのことを言います。安倍晴明は呪術において大変評価されており、十二神将という式神を扱っていました。十二神将とは安倍晴明が家来として扱っていた鬼神のことです。そしてこの十二神将には6人の吉将と6人の凶将が存在し、上弦6人と下弦の6人に分けられていた設定とリンクするのです。


また鬼舞辻無惨に関しての設定は1000年前から生き続けている鬼の原種です。1000年前ということは作品の舞台となる大正時代が1912〜1926年なので912〜926年ということ。平安時代が794〜1192年(1185年との説もあり)なので、正に生まれた時代は平安時代ということになります。


「鬼舞辻」という名も、「辻」という字が「交差する道」を意味することから、鬼と人間という二つの生き方の狭間にいる者、それほどに完璧な生物であることを意味するネーミングに思えます。交差するその場所で鬼が舞う。


逆に「無惨」の「惨」には二面性があります。片や「心がひどくいたみ悲しむ」という意味がある一方で、「むごたらしい」という意味を持つので、陽に当たれなくなった日陰者の自分を悲しむ面と、鬼として残酷に振る舞う面を上手く1文字で表現されたものと推察します。


タイトルが『鬼”殺”の刃』ではない理由

炭治郎が所属するのは鬼殺隊ですよね。鬼を殺すための部隊です。しかしその隊服の背には「滅」の文字が刻まれ、タイトルも『鬼”滅”の刃』ですね。これは一体何故なのでしょうか。


まず鬼滅とは、鬼がもともと人間だったということを意識したものでしょう。一方で鬼殺とは目的ことです。まだ鬼を人間に戻す可能性すら皆無と思われ発想すらない状況ですから、人間を食らう鬼は殺すしかないという前提です。だから鬼殺隊という名称になったわけですが、しかしストーリー上の設定、そして始まりの呼吸の時代には、人間だったものが鬼になったのだから、憎むべきはその「鬼化」であって、鬼という存在そのものではないということだったと考えられます。


少なくても、鬼化した禰豆子を人間に戻すために奮闘する炭治郎の立場を中心に据えることからしても、タイトルに『鬼殺』はちょっとそぐわない。それに文字も音も良くない。それよりも、「滅」や「鬼舞辻無惨」、「竈門」など重要なフレーズに多用されているMの音は、ニュアンス的にも聞こえ方的にも雰囲気を和らげるものです。


また、単純に鬼を殺して回る話ではなく、鬼という存在をこの世からなくすという意味で「滅する」を採用したのでしょう。そしてその「鬼」も、単なる物理的存在としての鬼ではなく、血中に存在する人間を鬼化する「要因」を指していると思われます。滅するべきは存在ではなくその「何か」の方なのです。


登場人物たちの名前に関する予備知識

・竈門炭治郎

「竈門」という名の付く神社や地名が話題になっていますね。大分県の八幡竈門神社(別府市)と福岡県の宝満宮竈門神社(太宰府市)があるようです。実は私の住む熊本県にも竈門という地名があったようで、県北の和水町にその集落跡が残っています。


・竈門禰豆子

「禰」という字は音読みで「デイ、ネ、ナイ」、訓読みで「かたしろ、みたまや」と読む19画の漢字です。戦国武将で有名な豊臣秀吉の正室「禰々(ねね)」もこの漢字を使っていました。


加えて、訓読みにある「みたまや」には「廟(びょう、祖先などを祀るための建物)に祀った父」という意味が、「かたしろ」には「戦争のときに持っていく位牌(いはい)」という意味があるようで、おそらくこの作中で亡くなっている炭治郎の父と、鬼化して特殊な状態(異常な再生能力や陽光を克服するなど)の禰豆子に特別なつながりを意識したものとも言えます。


・伊黒小芭内(蛇柱)

アルビノの蛇(白蛇)を纏ったオッドアイの柱ですが、この皮膚のメラニン色素が欠乏するアルビノ(先天性色素欠乏症)や左右の眼の色が違うオッドアイ(虹彩異色症)の組み合わせは、今年2020年の1月にロシア南部チェチェン共和国に住む写真家によってinstagramでシェアされた11歳の少女アミナ・イペンディエヴァさんが想起されます。彼女の場合は自身がアルビノであり、かつオッドアイという1億分の1の確率でしか生まれてこない奇跡の少女として話題になりました。なお、眼の色の違いは小芭内さんとは逆です。


白蛇自体もその希少性から幸福のシンボルとされ、さらには蛇それ自体が再生の象徴ということで、『ナルト疾風伝』でも三忍の一人・大蛇丸(おろちまる)の部下で医療忍術に長けているカブトが、同じような大きな白蛇を連れた姿として描かれています(大蛇丸の細胞を自身に取り込んだことにより)。確かにカブトのキャラも蛇のようにネチネチしていたような気がします(笑)


・甘露寺蜜璃(恋柱)

「甘露寺家」とは名門中の名門のようです。初代は鎌倉時代末期〜南北朝時代の公卿だった甘露寺藤長。大正時代には大正天皇にも使えるほどの名家です。その設定がどこまで鬼滅の刃に組み込まれているかは分かりません^ ^;


・栗花落カナヲ

「栗花落(つゆり)」とは、栗の花の落ちる時期が梅雨入りの季節であるため「つゆいり」から「つゆり」のように転訛して「栗花落」の字に充てられたと言われています。この「花」から花の呼吸が連想されたのかも知れません。



と、ここまで色々知らべていたことを書き連ねてきました。でも調べ始めたらキリがないほど幅広い知識にリンクしていけますので、面白いのですがめちゃくちゃ時間が掛かるので、今後気が向いた時に書き足していくような形にしたいと思います^ ^; 


それではここまで読んで下さりありがとうございました!また次回をお楽しみに!

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