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「続・日本語ラップ批評ナイト」開催に寄せて(B面)

赤井浩太

 つやちゃんのアジビラ、みんな読んだか? 「殴り込み」に「道場破り」だってさ。送られてきてびっくりした。こっちはエンジンかけて待ってたつもりだったんだ。ブルンブルンいわせてたのはおれの方だ。それがどうだ。気がつけばつやちゃんの方がアクセルベタ踏みで走りだしちゃってた。さらにこれを読んだ司会の韻踏み夫はたった三行のメールで三回も「最高」とか言うわけだ。どうすんだほんとに。登壇者二人は始まる前からすでにトップギアだぜ。客を置き去りにしても止まらないぞこのイベント。
 しかし遅れをとるわけにはいかねえ。アジビラ稼業はこっちの商売である。「日本語ラップ批評ナイト」ね。知ってる知ってる。最近まで知らなかったけど。「プンプンにおうぜアウェイなバイブ」ってね。「新参者」の別名は「闖入者」だ。「ていうかWHO ARE YOU?」とか言わせねえ――「どう出てきたか知ってんだろ」。
 とはいえアイサツは要るか。批評家なにするものぞ。よろしい、お答えしよう。批評家はラッパーの提灯持ちではないし、リスナーの案内人でもない。批評家とはその両者に咬み合う双頭の怪獣である。つまりどういうことか。ガオーっていいにきた。

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つやちゃん「「続・日本語ラップ批評ナイト」開催に寄せて(A面)」


 今年の初め、つやちゃんが『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DUBOOKS)を刊行した。「続・日本語ラップ批評ナイト」は、その刊行記念イベントである。そして、この本はその副題の通り、国内の女性ラッパーを取り上げた一冊だ。
 さて、本書で取り上げられているラッパーで言えば、たとえばRUMIか、COMA-CHIか、MARIAか、DAOKOか、NENEか、Awichか。どこから聴いたかと問われれば、おれは世代的にCOMA-CHIだった。そう、『RED NAKED』(2009)だった。「name tag」だった。「東京非行少女」だった。「B-GIRLイズム」だった。〈前代未聞のFemale……〉というCOMA-CHIの声の響きが今も鼓膜に残っている。
 時同じく2009年、イアン・コンドリーは当時のJ-POPと比較して次のように書いている。「[日本の]ヒップホップはいささか異常なのであり、いわばキュートなスターからなる海に浮かんでいる紛れもなくマッチョな孤島なのである」(『日本のヒップホップ』、NTT出版、2009年、277頁)。コンドリーは、J-POPを「海」、日本語ラップを「孤島」として地政学的に認識し、かつその両者が「キュート」と「マッチョ」としてジェンダー化されていることを分析した。
 そして月日は流れ、10年以上が経ち、〈For the Freedom This is my Queendom〉というAwichの建国宣言が叫ばれる2022年。かつての「孤島」の風景は大きく様変わりしている。「地」が変わったなら、「図」も変わらねばならない。『Queendom』と同じ2022年に刊行されたつやちゃんの『わたしはラップをやることに決めた』は、フィメール・ラップ批評を更新した一冊として記憶されるべきである。
 その試みをよりはっきりさせるために同時代的に比較するならば、高島鈴の立場を挙げるべきだろう。高島は「「音楽と政治は別物だ」という考えは一切許容しない。何かを表明すること、そして何かを評価する営みは、全て政治だ」(「シスター、狂ってるのか?①」『シモーヌ VOL.2』、現代書館、11頁)と述べている。
 敵と味方を画定する線を引くことが政治の根本的な営みだとすれば、「全て政治だ」とする高島のそれは、日本語ラップという「孤島」が閉ざされた聖域であることを許さない。換言すれば、「孤島」を縁取る輪郭(いわばマッチョな共同体の輪郭)を「線」として認めず、むしろそのド真ん中を切り裂くように「政治」の線を引くのが高島の立場だと理解できる。
 では、つやちゃんはどうか。前書きで明言しているように、本書は「政治性」を強調するわけではない。むしろ「控えめな姿勢で「音楽」に注目する」という(本書、5-7頁)。しかし続けて、「けれどもこれは、控えめなようでいて実は泥臭く勝ちにいく戦略である」と書かれる本書は、いったいどのような立場なのだろうか。
 これはおれの解釈だが、「孤島」の従来の輪郭に対して「政治」の線を引き込む高島の立場に比して、つやちゃんの戦略とは「孤島」の外縁に位置付けられてきたフィメールラップの解像度を上げまくることで、すなわちラッパー論や作品論を愚直に重ねることによって、「日本語ラップ=孤島」という図像そのものを崩壊させようとすることなのではないか。
 「孤島」の外周にひろがる砂浜は、つねに「海」に接している。内部/外部を自由に往還するこの砂こそが、つやちゃんにとってのフィメールラップである。「日本語ラップ/J-POP」の間に存在するスラッシュ、共同体の内/外を画定する線を流動する砂に変容させ、その砂の流れに身を任せてみること。それが本書のしたたかな政治性にほかならない。「女性の歌い手がラップをしてさえいれ・・・・・・・・・・・・・・・・・もうフィメールラップ作品である」(本書、7頁)という反-線引き的な判断は、その証拠だ。
 むろんどちらも批評の戦略だ。そして、この批評の在り方については、「続・日本語ラップ批評ナイト」でも中心的な話題となるだろう。一読すれば分かる通り、本書の批評方法はきわめて多角的だ。ラッパーそれぞれに合わせてカスタマイズされていると言っても過言ではない。そうしたつやちゃんの批評のスタイルについては、かなり時間を割いて掘り下げられることになるだろう。便宜的にではあるが、今回は批評のスタイルをいったん二種類のタイプに割って考えてみようと考えている。
 もちろん各章の具体的な内容についても見ていくつもりだ。例えば、MARIAやAwichの評価の仕方についてはポリティカルな問題を引き寄せずにはいられないだろう。前述の高島も「シスター、狂ってるのか?②」(『シモーヌ』VOL.3)ではAwichを論じているため、それは参照されるべきである。そして、本書によればAYA a.k.a PANDAについては「正確に論じたテクストなど皆無である」というから話題に挙げたい。こちらは韻踏み夫の「耳ヲ貸スベキ!――日本語ラップ批評の論点――第四回 ヒップホップ・フェミニズム/通俗性/革命的モワレ」(『文学+』WEB版、2022年3月25日)がひとつの手引きとなるだろう。
 おそらく話は二転三転してコースアウトを挟みつつトリプルアクセルジャンプを決めて大きな問題にまで飛んでいくだろう。そう、たとえば、なぜ批評はヒップホップに必要なのか?――俺たちはガチンコでしゃべる。切る手札を惜しむほど余裕じゃないし、恥をかくことを恐れている場合でもないからな。そして最後には、これから刊行される予定の日本語ラップ批評の本についてお知らせする。
 すでに情報が出ているが、9月刊行予定の韻踏み夫『日本語ラップ名盤100(仮)』(イースト・プレス)。これは日本語ラップ批評のベースセットとして必読の書となるであろう。それから、おれ(赤井浩太)も『ラッパーたちの階級闘争――右翼の根拠地(フッド)を奪取する(仮)』(河出書房新社)を年内には刊行予定だ。それぞれの著作について少し宣伝をするつもりである。
 それにしても、たった二時間で準備したプログラム全てを話せるかは分からない。打ち合わせ段階ではガッチガチに内容を詰めた。たぶん三人が三人とも息をつく暇もなくベラベラしゃべらなきゃ終わらないだろう。進行は爆速になる。だから全員ちゃんとついてこい。俺からは以上だ。

文責――赤井浩太

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