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空虚?

1年前、あなたは言った。「ハレとケの往復を繰り返す日常の中で、ハレにおいて束の間の楽しみを味わっては、ケに戻っては空虚な日常を実感してつらくなる。このまま一生を終えるのが怖い。」

このことばを私は軽んじていた。


ある人と住んだ。完全リモートで働く社会人のこの人の家で、週の半分近く寝泊まりする生活も、はや2ヶ月になった。

大きくて仄暗い寝室で、机に向かってファイルを埋め、電話に対応するあの人。ベッドに腰掛けながらシラバスを読んで課題を確認する私。留学生の身分で優先度を決めて授業を落とす決断までしたのは、「他に集中したいことがあるから」。それは1年と少し後に始められるかもしれない仕事の機会をつかむための努力であったり、この人との残された時間を大事にすることであったりした。

ワークライフバランスという言葉はたぶん欧米から日本に持ち込まれたものだと思う。ここカナダでは日本よりもそれが当たり前のように保障されていて、9時5時の労働時間が延びることはほぼない。

これまで大人のワークを見ることもライフを見ることもあった。でも24時間全体を見たり、それが積み重なった1週間を見たり、1ヶ月を見たり、10年に思いを馳せたりすることはなかった。

1日の1/3は労働に。1/3は睡眠に。残りの1/3のそれなりの時間をかけて家事をして、残った時間で「好きなことをする」。

趣味のボクシングに行って、言語交換に行って、アニメを観て。週末には、仲のいい友人たちで集まってご飯を食べて、近況を報告し合って。そしてまだ労働に戻っては、生活を回していく。


私は日常に小さい幸せを見つけることがうまいと思っていたし、思っている。やってみたかったことを叶えたり、空がきれいだったり、しょうもないジョークを思いついたり。

私にも趣味らしきものが増えてきた。合唱団でコンサートに向けて楽譜をなぞっていくのが楽しい。サルサとバチャータのレッスンに週1で通って、練習に最適だと先生に後押しされて週1でソーシャル(バーやダンスホールが貸し切られて、いろんな人が集まっていろんな相手と踊る)にも行くようになった。火照った身体がするどい寒さを心地よく感じる帰りの夜道は、週の中でも好きな時間だ。

それでも、世界の限界というか、生活という名の瓶の底が見えたようなもの悲しさは、私を去ってはくれない。

同じ人たちとのだれきって緩みきった会話。言い古された揶揄。倦んだステップ。

学生の私は、常に何かを目指して進まざるをえない状況に焦燥を感じながらも、その流れに身を任せていいことに安寧を覚えていた。つらい夜にも、1ヶ月後に困難を乗り越えてまたひとつ何かを手にしている状況を想像すれば安心できた。つらい夜にもいろいろあるが、基本的には学生としての自分の歩みを信頼できたからこそ、そこに希望はあった。

社会人としての自分の歩みはどんなものだろう。
今の落ち込んだ気持ちで考えるよりはひどくないはずだ。同じ仕事を繰り返したとしてもその中に新しい発見はあるし、成長もある。
でも上昇至高主義に反旗を翻す私は「常にスキルアップを」「夢の仕事」という概念を嫌っている(結局、そういうのを突き詰めた先にある限界性とか虚しさとかを恐れているだけなのかもしれない)。
そして、「必ずしも何かを目指し続けなくてもいい」という選択肢があることがまた怖い。同じことを延々と続けるだけでもめしがくえてしまうことが怖い。

卒業単位は足りているから、留学先での単位取得は「別にしなくてもいい」。何もしなくてもいい日常を送ったことがまた、こういう憂いを深くしたように思う。


だらだらと要領を得ないことを喋ったが、これはひとえに、「人生は思っていたよりも空虚でつまらないかもしれない」とを断言してしまうことへの恐れから来ているのだろう。大事にしたかった時間を噛みしめたことよって大事にしきれなくなった苦しさ。

ワークにもライフにも限界はある。
バランスが取れても、バランスが取れるだけかもしれない。
ハレと思っていたものさえケになっていく。


そんな中でもがきながら、幸せのかけらを喜びながら生きていくのが人生。
きっとそうだろうし、1年前の私も同じことを思っていた。
でも、あの時はこんな憂鬱を知らなかった。あなたの言葉の重みを軽んじていた。




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