大貫隆『ヨハネ福音書解釈の根本問題』(YOBEL, Inc.、2022年)を読んで。

 研究者の多くは自らのことを語ろうとはしない。しかし、大きな仕事をした人は多かれ少なかれ自伝的なものを何か残している。本書の著者、大貫隆氏は新約聖書学を牽引し続けている碩学である。氏の業績は『福音書研究と文学社会学』に一つの頂点を見出すことができ、引き続くマルコ研究とヨハネ研究は今もなお新約聖書学において特異な位置を占めていることと思う。広くグノーシス研究者として知られているかもしれないが、本書の書名からもうかがえるように、著者の根本問題はやはり新約聖書研究にあることがうかがえよう。一般向けに記された『イエスという経験』と『世の光イエス』は今なお新約聖書に興味を持つ読者必携の内容である。
 本書は新約聖書研究、特にヨハネ福音書の研究からスタートした著者の関心がどのように移り変わってきたのかを語る本である。新約聖書研究の深みへと足を踏み入れていくさまは、ある特異な世代の空気を感じさせるものであり、読者である私たちにとってもまたそこに語られる相互関係を通して思想研究の手掛かりが与えられるものである。ともすれば非常に個人的に聞こえてしまうかもしれないが、そこに語られることがまさに著者の関心の移り行きを、そして著者の心に移った思想的風景を明らかにしてくれるのである。
 聖書研究に足を踏み入れようとする人にとってさまざまな躓きの石というものがある。それは聖書をどう読むかということとも関わることであり、一枚岩にこうであると断言できる回答はなかなか見いだせないであろう。それこそ、一人一人が自らの歩みを通して確かめるしかないものなのである。信仰者にとっては科学的に聖書を読むことへの抵抗があるかと思えば、世俗の側から見ると信仰の立場が特異に映るということもあるかもしれない。しかし、学問的な新約聖書の読みを通してイエスの言葉に肉薄することの意義を著者は『イエスという経験』において十全に明らかにしている。その著者の根本的な関心がどこにあるのかを語った本が本書『ヨハネ福音書解釈の根本問題』なのである。
 本書の内容は解説を全く要しないほどのもので、むしろ数多ある新約聖書研究の古典を読み解く著者の叙述は、それらの言及される研究を読まなくても良いのではないかと錯覚してしまうほどのものである。根本的な関心をリクールのテクスト論に端を発し、ブルトマン、ケーゼマン、ボルンカムを読解していくさまはそれぞれのテクストが持つ可能性と限界とを端的に明らかにするものであり、それらの振幅を経て著者は自らのテクスト読解をガダマーの解釈学に基づいて行う。テクストの地平の融合の実践をヨハネ福音書に見出そうとする著者の読解は生き生きとヨハネ共同体の目指したものが何であるかを浮き彫りにし、読者をさらなる深みへと導くものであろう。ガダマーの解釈学についての解説もまた、ここまで書いてしまってよいのかという内容なのが印象的であった。
 本書はヨハネ福音書研究をめぐる根本問題を古典たる研究の読解を通して明らかにするものである。そしてある種実存的な著者の関心の移り行きは単にテクスト研究にとどまらず私たちがヨハネ福音書を読むことの意味を問いかけ、私たち自身が今までに積み重ねられてきた研究を十全に受け留めるための地平を開かせるものなのである。リクールやガダマーのテクスト読解に伍す解釈学の実践を期する著者の気迫を見出すことのできる稀有な一冊である。


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