床で寝る

 気分が晴れないとき、不安なときは、なにかいつもと違うことをして気分転換をすべし。でも、その「いつもと違うこと」の手数をあまり持っていない私は、つい馴染みの店に飲みに行って、いつもと変わらぬメニューを注文して、なにか気晴らしをした気になっていた。
 だから今日は、飲みにいくのをやめよう、と思った。飲みに行かないことが、私にとっての「いつもと違うこと」だ。
 とはいえまっすぐ家に帰るのもなんだか気が向かないのでしばらく近所をうろうろしていた。そうだ、歩きタバコをしよう! それもいつも自分が禁じていることだった。人気のない暗がりでアイコスのスイッチを入れた。初めての歩きタバコだった。
 しかし、私の肺活量が足りないのか、歩きながらタバコを吸うと猛烈に苦しくなった。世の歩きタバコをしている人は平然としているのに、私はただゆっくり散歩しているだけで息切れしてしまって、アイコスのスイッチをついに切ってしまった。やってみなければわからないことはいくらでもあるが、歩きタバコもそのひとつだな、と思った。私には向かないことがわかった。
 気が済んだので家に帰ると、いつも通り猫が甘えながら出迎えてくれた。うちの猫は私が帰宅すると、必ず床にひっくり返って腹を見せて「撫でろ」と要求する。彼女の気が済むまで撫でてあげないと、何度も何度も床ひっくり返るので、念入りに腹を撫でてやった。うちの猫は猫の中でもめずらしく腹を触られるのが好きなのだ。
 特に何もしていないのにどろどろに疲れた1日だった。仕事中、何度しゃがみこんでしまいたいと思ったことか。でもここは自分の家なのだから、いくらでもしゃがみ込めるんだよな。
 私は床に寝そべった。ベッドに行く気力がなかった。それに、ベッドで寝るという普通のことをしてしまったら、「いつもと違うことをする」ことから離れてしまうと思った。
 不思議と心が安らいだ。猫は不審がって私の周りをうろうろしていた。かさ、かさ、と小さな足音が床と通して私の耳に届いた。ああ、爪が伸びているんだ、切ってあげなくては、と思った。


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