2022/4/11の日記

「色は一種の視覚言語でもあるので、とても大切なのです」
ミッフィーの生みの親、ディック・ブルーナのインタビューの一節である。あの、世界中で愛されているかわいらしいうさぎの、無駄のないシンプルなアウトラインを彩るのは、練り上げられた色彩についての感覚と思考のたまものなのだろう。
それよりも、いわゆるブルーナカラーについて聞かれたときに、「色は一種の視覚言語でもあるので、とても大切なのです」という言葉がさらりと出てきたことに驚く。それは端的な思想のあらわれであり、背景に膨大な試行錯誤の存在を匂わせるのに十分な言葉だと思った。
ふだん脊髄反射のような言葉でばかり話すくせがあるから、こういうフレーズに出会うと驚いて我が身を振り返る。さも当然のように繰り出される言葉の、言葉になる前の時間に思いを巡らせるとき、私はそういう言語化のやり方を最後にいつ、したのだろうか、と考えてしまう。
今日は楽しかった、でもそれがどのように楽しかったのか、とか、そういうことでもほんの少し言葉を尽くすだけで、自分でも気づかなかったことが顔を出したりするものだけれど、私はすぐに言葉を怠けてしまう。
最近はそれが顕著で、そのせいなのか言語処理の解像度がどんどん粗くなっていくのを感じる。

感じたことや思ったことを言葉にまとめあげる作業は私にとってはコラージュにも似た組み合わせの作業で、ときにはそのあべこべさを楽しんだり、逆にぴったりはまる気持ちよさに浸ったりと、うまくいけば快感なのだが、たいていは平凡か退屈か、害も益もない文章ができあがる。
まとめ上げるというのは、ただ単純に1たす1は2という結果にならない、というところに難しさがあり、しかも不可逆だ。ミルクとコーヒーをまぜたらカフェオレになるけれど、カフェオレをミルクとコーヒーに戻すのはとても難しい。一度編まれたフレーズはがっちりと手を取り合って新しい意味をつくる。おもにそれは音やテンポが作用している。
1たす1が10にも20にもなるようなフレーズが作れたら、嬉しい、と思う。いまのところ1たす1がかぎりなく2に近いような言葉遣いばかりしている。そうではなく、10も20も連想できるようなフレーズづくりをめざす頭の使い方をしたいものだ。

1たす1が結果2でもいいから、無意識ではなく意識して言葉を紡ぐことを心がけたい。それは、生まれついての言葉づかいも生活態度によって錆びるということを、特に社会人になってから実感するようになったから。
私なりにその原因を探ってみると、会社員というものがいかに定型文だけでものをやりとりしているか、というところに行き着く気がする。きちんとものを考えて、それを時間がかかってもいいから言語化して、伝えて、フィードバックをもらって、というのは、やっているようで意外とできていない。お世話になっておりますではじまり引き続き何卒よろしくお願いしますで締める繰り返しの中で、切りはりされて1たす1が2でしかないような言葉しか生まれない。

多少わかってしまうと先に進めなくなるというのは悪癖だ。それは最短ルートを探そうとするあまりその場から動けなくなるのと同じ。最短以外の道の取り方を無駄ととらえる心の働きが、手を動かすことを阻む。
頭の中で段取りの地図が描けないと、どこから歩みを進めていいのかわからなくなり、足が止まる。でもだいたいのことはとりあえず歩き出してみることが大事だったりする。そのとりあえず歩き出すことのどれほど億劫なことか。これは自分の中での戦いとしか言いようがない。戦う元気がないときはもちろんなにもできない、停滞だけがある。
まだ停滞の手前で引き返せる余地があるなら、とりあえず手探りをはじめるしかない。だから、頑張れ自分、とおもうのだ。
磨かなければ輝かない、その磨くことをどれほど怠ってきて、そのツケがどれほどまわってきているのかをしっかり受け止める時期がきたような気がする。


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