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見たいものと見せたいものまるごと、未知の無限のばらばらの光のわたしとあなた/野村由芽

見たいもの・見せたいもの・見られたいもの・見られたくないもの。意図されていることもあれば無意識かもしれない、人の思いや願いの光のあらゆる種類を、わたしたちはどれだけ肯定する態度をもちあわせているのだろうか。

何度も思い出す、自分を形づくっている経験がある。クラスでうまくいかなかったこと。具体的になにかがあったというより、見られたい自分――「これがわたしだ」と自認している姿を発揮できず、「怯えている自分」がクラスメイトからの「わたし像」になってしまってそこから抜け出せない絶望があった。給食をよそってもらうとき、列に並ぶ。前に並んでいるのが、クラスでいちばん大きな声で笑えるグループの人で、「怯えた自分」こそがわたしの姿だとその人は信じていて、「本当のわたし」を知らないのだ、という恐怖が具のちいさいスープの匂いとともにからだじゅうに染みこむ。ここにいてはいけない、いられないと思い、どこまでもどこまでもしぼんでいく。心臓を隠すみたいにからだの前に腕をぶらさげて、「幽霊みたいだね」とその人が言ったのか、脳内で自分が言ったのか、ふたりともきっと、言ったんだろう。

だから観察するようになった。人の目を気にすることから離れたい。顔色をうかがい、関係性のなかに自分を位置づけ、誰かの「評価」に左右されているかぎり、わたしはわたしの魂に正直でいられない。幽霊ならばそのまま幽体離脱をして、見られることから逃れ、自ら世界をまなざしたい。もっと発見すること。どう見られたいかではなく、どう見るかのやり方を磨くこと。毎日なにかしらの発見をして、集めた風景やエピソードを頭文字で記憶して、周りの人にすこしずつ話すようになった。「猫が犬を追いかけてた」「ねぎまの“ま”はねぎの“間”ではなくまぐろの“ま”」「歯医者の電話番号の語呂合わせに無理があった」。頭文字で「ね、ね、は」と1日10個ずつぐらいのエピソードを覚え、頭のなかで繰り返し唱えて、ぜったいに、ぜったいに忘れたくなかった。

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13歳のわたしがもがきながら取り組んだのは、「誰かから見られている自分」から自分をはじめるのではなく、「自分がなりたい自分」を探し、形にし、伝えることで自分を取り戻すための世界像のつくりなおしみたいなものだった。見られている姿にあまんじるのではなく、選び取った姿で世界と対峙するのは幸福だと思った。だけど忘れられないことが起きてしまう。25歳の頃、転職したての会社で後輩に「ゆめさん、自分のことつくってますよね?」と言われたのだった。ばれた、というような、居心地の悪さに包まれて、見抜いてきたその人を怖いと思った。だけど月日がたち、「見られたいわたし」を意識と無意識のあわいでいつのまにか限定し、うまく呼吸ができなくなり、朝がくるのが怖くなり、明治神宮のまんなかで動けず通りかかった人に運んでもらったりして、あの言葉の意味を考え直したのだった。他者を自分にとっての「あるべき姿」や「見たい姿」に押し込めていないか注意深く見つめ、改めていきたいと考えていたつもりだったけれど、自分で自分を「ありたい姿」に縛り、その輪郭をなぞった先の苦しみには、自ら掘った土がいつのまにか行手を阻む壁になっていた、というような驚きがともなった。

一緒にShe isをたちあげたまきちゃん(竹中万季)とこの春つくったme and youというちいさな会社では、個人と個人のあいだで交わされるような、気負わず、完璧じゃない寄り道だらけの対話から自分を知り、他者に驚き、お互いがまちがうことを受け入れ、まちがったら学び、許すことを覚え、そうやってわたしもあなたもここにいていいのだと、美辞麗句ではなく心から思えるか実験したいと考えている。迷いも含め、半端な過程の状態を作り手として共有する行為には怖さもある。これまでつくってきたものを見ていてくれていた大切な人たちを裏切ってしまうのではと思ったりする。だけどこれまでやってきたことはわたしの一部として確かに存在し続けているし、すべての人は多面な層でできているのだと、自分自身がちゃんとちゃんと感じていけるといい。花を買い、編み物をし、詩を書くこともあれば、鼻から水を吸って「プールみたい」とうっとりしたりもしながら。

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「一部の像」へ到達しようとする当人の努力やその存在自体は尊重されるべきだけれど、もしも、その像を見せている人が持つ別の輝きが「一部の像」の肥大によって隠され、心がおいてけぼりになってしまっているなら、きっとどこかに無理が生じているのだと思う。選んだり排除したりせずに、距離を変えながら、すべてそこにあるのだと受け入れていく。わたしが見たいものだけを見るのではなく、あなたが見せたいものだけを見せてもらうのではなく、たとえば本人も気づいていない後ろ髪に舞いおりた花びらに目をとめる行為にも、その花びらの天使が再び旅立つゆくえを祝福する余白の時空にも、魂のふるえる交歓はあるのではないですか。他者であっても自分自身であっても、表出する瞬間はいつだってなにかの一部であり、それ以外の未知の無限の面が放つばらばらの光を受け取る準備をしていられるといい。それは時に星や灯台や松明やスポットライト、時にすぐに消えてとけてしまうバースデーケーキのろうそくみたいな一瞬の輝きかもしれないけれど、全部全部、その人のものだから。

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野村由芽 / のむら・ゆめ
1986年生まれ。編集者/文章を書く。広告会社に勤めたのち、2012年CINRA入社。 カルチャーメディアCINRA.NETの編集、企画、営業を行い、アジアのクリエイティブシティガイドHereNowの東京キュレーターを担う。 さまざまな企業のオウンドメディアの立ち上げにも携わり、コンセプトやストーリー立案、コピーライティングを主に担当。 2017年に同僚の竹中万季と共に、ひとりひとりの声を肯定する場所「自分らしく生きる女性を祝福するライフ&カルチャーコミュニティ”She is”」を立ち上げ、編集長を務める。 2021年4月にCINRAを退職し、同月、竹中万季と共に株式会社ミーアンドユー(me and you, inc.)を立ち上げ、取締役に就任。 個人の対話を出発点に、遠くの誰かにまで想像や語りを広げる活動を行なっていく。 遠くと近くを行き来しながら、相手の言葉に耳を傾け、対話をしながらひとときその人の風景に潜ったり、一緒につくっていくような編集視点を心がけている。
me and you, inc. HP:https://meandyou.co.jp/
Instagram:@ymue
テキスト・撮影:野村由芽 / 編集:石澤萌

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