心と小説について

内心と本心

人は、他者との交流のなかでさまざまな言動を行ふ。
そして、その言動に関して、内心で思ふところがある。

内心は、他人に聞こえない、自分だけの思ひが満ちるところだ。

この内心が存在するのは、本心がその下にあるからだ。
建物で喩へると、
人の心とは、二階建ての四角い鉄筋コンクリート造りの建物だ。
屋上に、他者との交流における言動が歩き回ってゐる。

この屋上とは、この建物の主にとっては、社会であり、世界であり、宇宙ですらある。
つまり、交流してゐる他者にしろ、社会にしろ、世界にしろ、宇宙にしろ、この建物の主がさうだと思ってゐるものを屋上といふ「何も無いところ」に投影してゐるわけだ。

屋上の扉から下に降りると、二階である。そこがこの建物の主の私的な生活の場である。
屋上を世界のすべてだと思ふやうな、この建物の主だから、この二階の私的な生活の場所が、自分の住居(つまりこころ)のすべてだと思ってゐる。

実は、その下に一階がある。
これが本心である。

本心とは、たとへば、トラウマのあるところだ。
トラウマとは、自覚できないものである。
「あれがトラウマだった」といふふうに言葉にしてしまったものは、トラウマの影のやうなものだ。
言葉にして他人に語ることで本人が納得しても、トラウマ自体、本心の中に在る。
本心の中に在るものは、言葉にできない。
言葉にしようとしてゐる意識状態では捉へられないものが、本心、つまり「当の」である。
だから、自分がどういふトラウマを持ってゐるかは、たいていの人は、わかってゐない。


本心に目を向ける人は、どうしたって心の内部に気持ちが向ひ、心身の精力は本心といふブラックホールの中に吸い込まれていくから、人から社会から見て何もしてゐないのに、年齢とともに衰弱してゆく。

近代小説と本心

近代小説は、人の心には内心だけでなく、本心もあるらしいと気づいてしまった人類が、苦しまぎれに編み出した表現形式だった。
そんな形式によってどうするつもりだったかわからないし、実際、どうしようといふあてもなかったはずなのだが、勢ひで、人の真実や社会の本質や人間性の深淵を掴みだし、抉り出し、白日の下にさらすのが文学だといふやうなことを人に言ひながら小説を書く人が多かった。

そんなことをわけもわからず続けても、言葉自体は、音と同じで、美を表現する材質となるので、文学といふ芸術が成り立った。

今、日本語は、漢文素読といふ、その言葉を成立させる基盤を失った。
これは、鉢植ゑの植木を鉢から抜いて、水を満たしたバケツに入れたやうなものだ。しばらくは枯れないかもしれないが、枯れないだけで枝葉を伸ばしたり花を咲かして実をつけることはない。

たぶん、忘れたころには枯れてゐるだらう。



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