男といふ不安と性欲

堀間善憲さまのnoteの記事は、これまで、何度も何度も、引用させていただいて、他人の提灯で灯りをとるといふ次第で自分の記事を書かせてもらってゐます。

ただでさへ、インスパイアされる記事なのに創作大賞の応募作になってからは、エライことになりました。

大賞応募の記事は、一つのテーマのもとに、いくつかの小説や映画や評論や楽曲が取り上げられて縦横に論じつつ、確実に核心に迫るといふスタイルなので、そこで取り上げられてゐる小説や映画など、ひとつひとつから、それぞれ思ふところが湧き出てしまひます。

この記事でも、わたしの大好きなO・ヘンリーの作品が取り上げられて、それについても書きたいことがいっぱい。ワグナーも(音痴なわたしですがヘンタイとして)とても好きで共感する( ´艸`)芸術家なので、やはり思ふところがいろいろ出て来ます。

かういふのは、コメント欄で書いてもいいのかもしれませんが、なんせ、長くてくどくどしてしまふので、やはり、自分の記事にさせていただきます。

今回は、『眠れる美女』(川端康成)。
実は、この作品については、以前も、堀間善憲さまの記事を引用して自分の記事を書いてゐて、今回書くのも、それと内容的には変はりはありません。
はっきり言ってくりかへしです( ´艸`)
でも、書きたい。

母親とは何か?
そして、男とは何か?
それは、(母親に愛されなかったためにオカマ(しかもマゾよ!)になってしまったと思ってゐる☆)わたしにとって最も関心のあるテーマの一つです。


☆ホモでオカマ(しかもマゾ!)なのはわたしの生まれつきかも。なんにしても、原因のはっきりしないことを、検証も出来ない理屈で、ヒトのせい(母親との関係のせい)にしちゃいけないことはわかってますけど、誰かのせいにしたいのです( ´艸`)

さて、堀間善憲さまの記事から引用します。



―以下引用―(ところどころ、原文になかった改行を加へてゐます)

それだけにとどまらない。その夜、初めてふたりの少女をあてがわれた江口老人は、みずからも睡眠薬を服用したアタマで、おのれの人生に行き交ってきた女たちの面影を振り返り、こんなふうに一生の最後の女へと向かいつつあるときに、ふと疑問を発するのだ。じゃあ、最初の女はだれだったのか、と――。   

最初の女は「母だ。」と江口老人にひらめいた。「母よりほかにないぢやないか。」まつたく思ひもかけない答へが浮かび出た。

「母が自分の女だつて?」

しかも六十七歳にもなつた今、二人のはだかの娘のあひだに横たはつて、はじめてその真実が不意に胸の底のどこかから湧いて来た。

冒涜か憧憬か。

江口老人は悪夢を払ふ時のやうに目をあいて、目ぶたをしばたたいた。
しかし眠り薬はもうだいぶんまはつてゐて、はつきりとは目覚めにくく、鈍く頭が痛んでくるやうだつた。

うつらうつら母のおもかげを追はうとしたが、ため息をついて、右と左との娘のちぶさにたなごころをおいた。

なめらかなのと、あぶらはだのと、老人はそのまま目をつぶった。



 

このあと、小説は急転直下、隣に寝ていたはずの片方の少女が死体となっていたという幕切れに至るのだが、むしろ、わたしにはこの江口老人が朦朧たる意識のなかで反芻した独白のほうがずっと大きな衝撃をもって迫ってくる。

母親と息子は性の秘儀で結ばれている。と同時に、その秘儀は決して成就することがない。それは、わずか4歳の年に母親と死別した川端が人生をとおして見つめ、世の男たちのだれもが心底に沈めている真実と見抜いたものだったのだろう。  

「男は七十になっても男」の諺には、ひと筋縄で済まされない意味が含まれていそうなのである。

―引用、終はり―

わたしは、ユング心理学が流行ってゐる時代に、ぢゃあ、あたしは時代遅れだとされるフロイトにしよう、って思った天邪鬼( ´艸`)

『性欲論三篇』には感動しました。これを読んだ当時は、わたしは生成文法の研究をしてゐて、自分を科学者だと思ってゐましたから、フロイトの「論文」とされるものは、随筆だと感じました。
でも、感動して随筆だと思ったのです。
ゲーテの色彩論みたいだ。フロイトといふ学者は、(実は、柳田国男みたいな学者のふりをした文学者で)すごい作家だ、ゲーテを継ぐかも、と思ひました。

わたしがフロイトに感心したのは、
男の子は母親と結婚したい
女の子は父親と結婚したい

とはっきりと述べたからです。
フロイトの理論から、なんで父親がゐるのかといふことも解明されます。

父親は、息子と母親の結婚を許さない
父親は、娘との結婚を断念する

それが父親の役割です。
息子が母親と結婚することを許さないのは比較的楽にできますが、娘との結婚を断念することを、はっきりと父親の役目として意識的に取り組むことは、なかなか難しいようです。
昭和くらゐまでは、娘に対してやたらと邪険な態度で、男尊女卑の価値観丸出しにして、娘から毛嫌ひされる父親も少なくありませんでした。好きな女の子をいぢめる男子小学生並みの幼稚な父親だったわけです。

女性は、娘(男性を性的に知らない)時代は、自分の父親を「処女を奉げる最初で唯一の男」として見てゐますから、その男が男尊女卑の価値観で自分を苦しめたなら、その後の一生は男尊女卑の男たちを反省させたい、謝罪させたい、もしくは撲滅したいと思ひ続けることになった。・・・と、わたしは思ひます。

でも、その後、平成に入ると、逆に、娘との結婚をあからさまにちゃくちゃくと進めているやうな父親も多くなりました。
娘に好かれることが生き甲斐になり、娘の躾など娘にいやがられるやうなことはすべて妻に丸投げ。娘が「ママよりパパのはうが好き」「パパのお嫁さんになるの」と思春期になっても言ひ続けさせようと、甘くやさしい父親を演じ続けます。
さういふ父親は、或る日、娘が結婚相手をつれてくると衝撃のあまり、口がきけなかったりします。そして、娘の結婚式で泣き、結婚した娘の初夜の時間には悶々としてゐました。
かういふ、自分の性欲を満たすために自分に媚びるやうな父親を、娘はむろん男として尊敬できませんから、「男ってだめな生き物」と思ふ女性が平成には増えたやうな気がわたしにはしました。

今、令和ではどうなってるのか、わたしは知りません。

といふわけで、わたしは、フロイトを読んだので、次の文にはまったく同感です。

母親と息子は性の秘儀で結ばれている。
と同時に、その秘儀は決して成就することがない。

成就してはヤバいので、父親が阻止することになり、さうして阻止する男が、息子にとっては、男の師表となります。
つまり、性欲(一生、母親と一体のままでゐて、社会に出て働くとかはしたくないといふ男の根源的な願望)をコントロールすることを学べる相手を得ます。
これが学べないと、学校に行けば不登校になるし、就職してもすぐに辞めてしまふし、それどころか大学を出ても就職しないで引き籠りといふことにもなりがちです。

母親との一体、それがあれば、それを回復できれば、
人生上のすべての問題(つまりは、生きづらさと総称されるものごと)一挙に無いものにしてしまふことが可能であると思ってしまふ。

だから、その願望を、男の子である期間に、どこかで、はっきりと断念しなければ、その後の人生は、自分でもよくわからない、何かを求めながら、これでもない、あれでもない、と探し回って空費する人生になります。
さうやって、五十や六十になってる人、わたしは、知ってゐます。・・・と、わたしの主観では思ってます。

それは、わずか4歳の年に母親と死別した川端が人生をとおして見つめ、世の男たちのだれもが心底に沈めている真実と見抜いたものだったのだろう。

川端康成氏に父親がゐなかったことも大きな問題だったとわたしは思ひます。

父親とは男の生き方を、息子に自分の生き方によって示す存在です
つまり、
①一生涯、性欲に悩まされ、完全に克服することも、完全に満たすこともできない中途半端な状態で生きなければならない男、 
②さういふ、存在そのものが不安である男☆であることの不幸と不安、そして、それを、解決できない問題として生きる、
➂そんなふうに生きる男が、どんな生き方をするべきかを、そのひとつの見本を(たたき台として)息子に(自分の生き方によって)示す存在です。

かういふ父親の役割を自覚的に担える男性は、もうゐなくなってゐるのかもしれません。
男性は、自分の性欲のことを誤魔化して生きてゐます。
また、子供に対する体罰は絶対にいけない、といふやうな、きれいごとのためには思考停止してしまふ現代社会では、男性が息子と男と男して対峙することも難しくなってゐます。
男と男、なんてことをやってると、ホモか、封建道徳か、などと時代のイデオロギーから揶揄されて軽蔑され、批判されてしまふからです。

それでも、父親になる男性は、
「男は七十になっても男」の諺には、ひと筋縄で済まされない意味が含まれていそうなのである。
といふことの意味は、一度、よく考へておかなければならないと、わたしは思ひます。
つまり、
母親と息子は性の秘儀で結ばれている。
と同時に、その秘儀は決して成就することがない。
さうした人生では、性の快楽とは、渇したときに海水を呑んだときの一時の潤ひであり、性に対する飢渇は六十にならうが七十にならうが続くといふこと。

男性がセックスをたいしたものではない、遊びだ、楽しみだといった感じで扱ってゐる限り、その男性の人生は偽善的なものとなり、中身を詰めたもの(たとへば父親の役割を敢えて担ふといったこと)にはなれないとわたしは思ひます。



性同一性障害といふ診断書によって社会の認知を確保できるし、また、ホルモン治療によって女体化もできる今の時代、存在が不安そのものである男性から、女性にトランスする男性が増えてゐるのは当然だと思ひます。


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