生きるために求めたもの

マリリン・モンローは、死の二カ月前、全裸になってプールで泳ぐ姿を写真家に撮影される現場を、多くのマスコミ関係者を呼んで、にぎにぎしく取材させてゐる。
まだ幼い子供の頃に、大人の男性たちの間を全裸で歩いたときの、完全に満たされた瞬間を、生涯、追ひ求めたのだらうとわたしは思ってゐる。

マリリンが生きるためには、
不特定多数の男性たちから見られて、求められて、愛される
ことが必要だった。

次の動画では、マリリンは、三万人の男性の目に見られて、完全な自己存在感を全身に味はってゐるやうにわたしには見える。

それは、たぶん、マリリンがものごころつく頃から求め続けながらも、これまでのどんな官能的な快感からも、得ることのできなかった存在感なのではないかとわたしは思ふ。

けれども、それも束の間だ。
だから、マリリンは女優として映画の中の自分を見てもらはふことに熱中した。韓国に駐留する米軍を慰問したとき、マリリンは「こんなに大勢の男性と会ったのは初めて」と興奮してゐたが、映画なら、三万人の男性などはあっといふまに超えてしまふ。
しかも、見られるさまを撮影されるといふことは、その過不足の無い完全な存在が時間の流れに浸食されすることなく、永遠に続くことを期待できる。

わたしも、そんなことに憬れた。
男性のからだで、そのからだを見られることを願ふと、悲喜劇が待ってゐた。

けれども、女性がおんなのからだを見られることをめざせば、先づは、芸術の世界がからだを見られたい女性を待ってゐる。

芸術といふ頂きだけでなく、さらに下に下っていきながら、ヌード撮影やAVやハードコア・ポルノやストリップショー、それに乱交パーティに至るまで、その願ひを実現できる世界は裾野を広げている。

裸婦のモデルをしてくれる女性はもちろん、AVやポルノやストリップショーに出演したり乱交パーティに参加したりしてくれる女性が絶えないことは、男性には、ありがたいことだと思ふ。


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