物語と現実と映画

『夢のような結婚  玩具になれた喜び』ohara
オカマでしかもマゾといふヘンタイのわたしにとっては、読むたびにうっとりする、なんか、すごくいいお話。

男の体に微妙に変化していく事実を本当に嫌っていましたが、冷静になればなるほど、本当の女性の体へは絶対に変化しえないものだと悟り始めました。

性転換した人たちは、客観的に醜いのです。どうあがいても偽物なのです。

夢のような結婚  玩具になれた喜び

ohara

男に生まれたことはどうすることもできないし、さうである限り、人生には光が無い。
この絶望感は女装ではごまかせない。
その感じ、めちゃくちゃ、わかります。

だから、女性に支配されることで、甦るしかない。
その起死回生の奇跡の物語。


美しく気高い純白のウエディングドレス姿の妻は、リードを引きながら恥じらいながらも厳かに現れます。
リードのその先の皮製首輪には、人犬のような最低限の装いの僕。
崇高なる女王様と四つ足の玩具が、身分不相応の夫婦の形を通じて誓い合う。
披露宴では、衆目の中で僕が単なる奴隷にすぎない存在でしかないことを披露されるのです。
妻以外にそんな僕の希望と夢を知りえたのは、たぶん姉だけだったでしょうか。
結婚式は、慎ましくあくまでも格調高い雰囲気の中で堂々とすすみました。
結婚の誓い、その本当の意味は、性奴隷として妻の玩具として一生を捧げる喜びだったのです。

性奴隷として妻の玩具として一生を捧げる喜び、
恥ずかしいですが、性依存症のわたしが、妻様との結婚で夢見たのもこれでした。
だからこそ、この物語に心を動かされてしまふったのです。

でも、かういふ物語を書いても読んでも、現実の「わたし」はそのまま残る。
これは、三島由紀夫氏の『癩王のテラス』の主題。

自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆく芸術家の人生の比喩
(『癩王のテラス』について)

現実そのものを物語に出来るのか?
できなければ、書き手の現実、物語にならない、まったく散文的な我が現実をどう生きるのか?

さて、
そんな問題を考へる時間を削ぎ、その問題を忘れさせるものとして、現代の日本には映画があります。

映画はこれからも、そしてますます繁茂すると思ひます。
今の日本で映画をわるく言ふ人はゐません。

けれども、大東亜戦争が始まってとうとう西洋近代との対決が始まった、と認識した学者作家芸術家の座談会「近代の超克」においては、写真、映像、映画が批判されてゐました。

映画は素晴らしい。
映画で人生を学んだ、社会を考へた、夢を持った。
さうしたことは、これからも誰もが語るでせう。
でも、映画がいかに日本人から現実に取り組む姿勢と時間を奪ってゐるか、そのことも、誰かが考へてもいいと思ひます。

戦後の日本を弱体化するために、GHQがとった方略に、3S、セックス、スポーツ、スクリーンがあったといふ陰謀論。
でも、3Sは、近代といふもののエッセンスでもあって、ただ日本弱体化の方略にはとどまらない。
ビンラデンも金正日もハリウッド映画を見ないと(北朝鮮の幹部たちは日本のAVで学んだ乱交パーティをしないと)生きてる喜び、生きてる実感を感じられなくなってゐたと思ひます。

現代人なら誰もがそれらに振り回されて、振り回されてるとも思へなくなってゐる現実です。



『癩王のテラス』より

王の声(苦し気に)バイヨン。・・・・私のバイヨン。・・・・私の・・・・

(バイヨン寺院、廻りはじめ、背後も同じやうな、林立する観音像をあらはす。道具納まらんとするとき、その頂きにもたれた王の姿がはじめて目に映る。黄金の下帯一つのかがやくばかりの美しい裸体で、若さとみづみづしさに溢れてゐる。すなはち、王の「肉体」である。輿の中の瀕死の王の声は「精神」である)

肉体 王よ。死にゆく王よ。俺の姿が見えるか。
精神 誰だ。そこから呼ぶのは? 寺の頂きの方角から私を呼ぶあの若々しい凛々しい声。あの声はたしかに聞きおぼえがある。誰だ? 私を呼ぶのは。
肉体 俺だよ。わかるか。俺の姿が見えるか。
精神 見えるわけもない。私の両眼は盲ひてゐる。
(中略)
肉体 ジャヤ・ヴァルマン王だよ。
精神 ばかな。それは私の名だ。
肉体 われわれは同じ名を領け持ってゐる。王よ。俺はおまへの肉体なのだ。
精神 それなら私は?
肉体 おまへは俺の精神だ。このバイヨンを建てようと企てた精神だ。それにすぎぬ。輿の中で滅んでいくのは王の肉体ではない。

(中略)

精神 私は死ぬ。・・・・声が、もう一言一言が、苦しい重荷だ。おお、私のバイヨン・・・・

肉体 死ぬがいい。滅びるがいい。

   毎朝のさはやかな息吹、ひろい胸に思ひ切り吸ひ込む朝風、
   その肉体の一日のはじまりは、水浴、戦ひ、疾走、恋、
   世界のありとあらゆる美酒に酔ひ、形の美しさを競ひ合ひ、
   ほめ合って、肌を接して眠る一日のをはりへとつづく。

   その一日を肉体の帆は、
   いっぱいにかぐはしい潮風を孕んで走るのだ。

   何かを企てる。それがおまへの病気だった。
   何かを作る。それがおまへの病気だった。

   俺の舳(みよし)のやうな胸は日にかがやき、
   水は青春の無慈悲な櫂でかきわけられ、
   どこへも到達せず、
   どこをも目ざさず、
   空中にとまる蜂雀のやうに、
   五彩の羽根をそよがせて、
   現在に羽搏いてゐる。

   俺を見習はなかったのが、おまへの病気だった。

精神 バイヨン・・・・私の、・・・・私の、バイヨン。
肉体 精神は滅ぶ、一つの王国のやうに。
精神 滅ぶのは肉体だ。・・・・精神は、・・・・不死だ。
肉体 おまへは死んでゆく。
精神 ・・・・バイヨン。
肉体 おまへは死んでゆく。
精神 おお・・・・バイ・・・・ヨ・・・・ン。
肉体 どうした?
精神 ・・・・。
肉体 どうした?答へがない。死んだのか?
精神 ・・・・。
肉体 死んだのだな。
   (鳥いっせいにさわぐ)
肉体 (ほこらしげに片手をあげる) 
   見ろ。精神は死んだ。 

   めくるめく青空よ。孔雀椰子よ。檳榔樹よ。美しい翼の鳥たちよ。
   これらに守られたバイヨンよ。
   俺はふたたびこの国を領(うしは)く。
   
   青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。

   ・・・・俺は勝った。
   なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。
                          ―幕―

三島由紀夫氏は、この戯曲の主題を明確に自分で解説してゐます。

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