コミュニケーションと歴史的仮名遣ひ

言葉が通じると、なんだか話せばわかりあへる気がしてしまひますが、よく考へたら、言葉がわかることがかへってあだになることも少なくなさそうです。
といふのは、たとへば「猫」といふ言葉を出して語る、或いは、その言葉によって語られることを聴く、さういふとき、話す者も聴く者も、「猫」といふ言葉を知ってゐる、わかってゐると思ってしまひます。

けれども、話す者と聴く者で共有する知識は、「猫は英語ではcatだ」といふくらゐのもので、その他の大部分は、「猫」といふ言葉の裏にそれぞれの経験がずらっと繋がってをり、また、生まれつきの感性とかによってそれぞれ違ふ捉へかたをした動物をたまたま「猫」といふ言葉で呼んでゐるだけだったりします。

わたしは、コミュニケーションしてゐる自分と他人を、よく、二つの卵みたいに感じます。
それぞれ、相手の中身はまるでわからない。中身とは、内心であり、体質であり、生まれてからこれまでの体験のすべてが詰って、ひとつの実存となって心身を動かしてゐる何かです。その中身の奥となると、本人にも何があるのかがわからなかったりします。

さうした二つの卵が近づいて、表面の殻のうちの、或る一点で互ひに接してゐる。
それが「私とあなた」のコミュニケーションだとわたしは思ってゐます。

接する点の処には、言葉があります。
日本語で話し合ったり、文章のやり取りをしてゐるため、「猫」といふ言葉の辞書的な意味は共有してゐて、それによってお互ひに意思疎通してゐると思ふことができます。
けれども、話し手が(そして、聞き手が)、「猫」といふ言葉で連想する数えきれない体験や実感や観念は、お互ひには一つもわかってゐないのです。

だから、聴き手は、ほとんど何もわかってないと思っていっしょうけんめんに聴く必要があるし、話し手は、自分の言ひたいことはほとんど何も伝はってゐないと思っていっしょうけんめいに話す必要があります。

もし、対話する気があるなら、さうなってしまひます。

だから、人の話を本気で聴かうとしたり、人に自分の言ふことを本気でわかってもらうとしたら、うかつに人と話しもできなくなり、コメント欄への書き込みやメールやラインでのやり取りもかなり覚悟を決めないことにはできなくなり、さうすると、社会生活や人間関係は保てなくなるだらうと思ひます。

流動する社会で、表面的に触れ合ふ人間関係では、コミュニケーションとは、むしろ、言葉を接点の中だけのものにすることが大切になるのかもしれません。
には、つまり幾何学でいふところの点には、定義上、厚みも広さも無いそうです。
そんな点に乗る言葉が、忙しく利潤を追求する社会でのコミュニケーションでは重宝されるのだらうと思ひます。

わたしには、最近の小説は、そんな点に乗る言葉で書かれてゐて、だから、誰にもすぐにわかって、受けるものはたいへん受けてよく売れるし、受けないものは誰にも受けなくてすぐに忘れられてしまふのかな?といふ気がしてゐます。

コミュニケーションが忙しい社会に適応してゆくと、言葉は変化してゆき、歴史的仮名遣ひは旧仮名遣ひ(古くて旧式なもの)とされ、正字の漢字は旧漢字とされて、表意文字としての漢字の本質を喪ってしまった略字がわたしたちにとっての漢字となってゆきます。

すでにさうなってから何十年も経って、もう百年にじわじわと近づいてゐるのが、今、わたしたちが暮らしてゐる日本だとわたしは思ってゐます。


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