結婚は一度はしときなさい

昔、関西のお笑ひ芸人さんのトリオで「かしまし娘」といふ人たちがゐました。 
三姉妹なんですが、テレビの対談番組の中で、結婚の話になったとき、長女の人が、
「妹たちには『結婚は一度はしときなさい』と言ってゐた」と語ってゐました。 
その理由。
「この世には思ひ通りにならないことがあることを知る。そして、我慢することを学ぶから。」

当時は、わたしも若かったので、ものすごくショックを受けました。 
結婚って、愛とかウェデングドレスとか幸せとか、そんなアメリカンなイメージで彩られてゐた時代だったので。 
恋愛して自分の気持ちに従って結婚を決めるのだから、どうしてそれが我慢を学ぶとか思ひどおりにならないことがあることを知るとかいふことになるのか?
不思議でした。

何もかも逆だといふ感じ。
今の女性は、結婚してみたら、自分の思ひ通りにならないことがわかってきて、それを我慢しないで離婚するのだらうと思ひます。
何につけても、思ひ通りにならないことを我慢しないでよくなって来てゐるので、結婚生活に関しても思ひ通りにならないことがあるなら、それは思ひ通りになるやうに変へられるべきで、我慢して耐える対象ではないといふことになって来てゐると思ひます。

長女の方は、おそらく大正生まれだったと思ひます。
バブル経済の昭和を浮かれて生きてゐたわたしには、びっくりな、レトロな、封建道徳の色さへ見えそうな結婚観。
わたしは我慢が苦手な人間で、我慢しなければならないことがあると逃げ出すといふことを繰り返して来ました。そのせいか、この長女の方の「女は我慢するもの」とされてゐた時代の人間認識に、どこか捨てがたいものを感じてゐます。
生きてゐると、誰にとっても、思ひ通りにならないものが何かは残り、それは自分にとってさうであるだけで他の人には話してもわからないことだから、取り扱ひとしては我慢するしかない、といふことになると思ふからです。
さういふものが、個人が個人である理由や原因であるやうな気がわたしにはします。自由意思とかいったポジティブなものよりも、宿命とか運命とか呼ばれるどうにもならない、受け入れるしかないものごとによって人間は、「みんな」から離れて「個」になるやうな気がしてゐます。

 
 

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