あやのんさん論2024版


あやのんさん、しつこいけど、文才あるなあ。
お父様が小説家だと聞いても、そりゃさうだらう、ってしか思はないわ。

最初は、あやのんさんの文章は、ジャーナリストの文章でなくて私小説家の文章だと言ったりしたと思ふのですが、今は、ジャーナリスト文学を創っていけるとあやのんさんに言ってます。

最初、ジャーナリストの文章ではないとして、言ひたかったのは、週刊誌とか新聞とかの読み捨ての文章ではなく、何度も読み返したくなる文章だといふこと。

読み返したくなる文章から構成されるのは文学と呼ばれるものだらうと思ひます。

でも、あやのんさんの文章を、私小説のそれとしたのは外れてたと、今は、思ってゐます。
私小説とは、自分を語るリアリズム文学。

西洋人は、神のまえに自己を「ザンゲ」した。
それにたいして、日本人は私小説というかたちを発明し、同時代の世俗人のまえに自己をさらけ出すことをこころみた。

加藤秀俊『暮らしの思想』

さて、わたしのあやのんさん論は、盲目的に褒めるものではなく、わたしとしては、あやのんさんのことを冷静と情熱( ´艸`)を持って見つめてみて、見えたものを書いてゐます。

そんなわたしの目から、あやのんさんは私小説家にはなれない、と思ふやうになりました。
私小説家なら、自殺しないにしても、人生の最後まで、なんら生きることに対する、これといった回答を得られず、歳をとるにつれて虚無感に包まれて、最終的には「生きることには意味は無い」と感じながら人生を終はるはずで、さうであるべきです。
そこから逃げては、私小説を書き続けることはできません。

志賀直哉氏などはそれに気づいて、暗夜行路を書いて、文学から足を洗ひました。小説の神様として余生を送ることにしました。賢い選択でした。

芥川龍之介氏は自分の才能が物語にあるといふことが近代人らしくないといふ劣等感を持ち続けてゐましたが、神経症がひどくなるにつれて、だんだんと苦しまぎれにつまらない自分語りの小説を書き始めて、しかも、さういふ形式こそが物語などより文学としては優れてゐるといふことを谷崎潤一郎氏に語ったりして、つひに私小説家として自殺してしまひました。

大谷崎と称される谷崎潤一郎氏は、近代日本のインテリたちが、西洋人の個人の概念に翻弄されてゐることに、若い時分に気づいたとみえて、他の作家たちが自己だとか社会だとかに(群れになって)こだはり続けるのをしり目に、独り、美を追求する方向に行きました。
小説家といふより芸術家になっていったのです。この点が、三島由紀夫氏が近代作家の中でも谷崎氏を別格扱ひして(泉鏡花と並べて)高く評価する理由でした。

谷崎氏は美を追求してみた。
すると、この世に、美は、女体にしか無かった。

その発見の証言が『金色の死』といふ作品でした。
その後、谷崎潤一郎氏は迷ふことなく、女の美、女であるには美であるしかない女、を追ひ求めました。これは、男性のヘンタイが行ってゐることと同じです。谷崎文学とは、偉大なヘンタイ文学なのです。

時々誤解してゐる人がゐますが、ヘンタイとは反時代的な姿勢ではなく、非時代的な(どんな時代の良識からも嫌悪される存在であり続ける)姿勢ですから、戦後、谷崎氏は、他の(戦争中は国家主義に対する反感から作品を発表しなかった)作家のやうに、自分は戦争中に軍国主義に協力しなかったと嬉しそうに語ることもなく、さらに戦後の自由だとか民主主義とかのから騒ぎも完全に無視して、死ぬまで女性美を追求し続けました。

あやのんさんは、小林正観さんを人生の師と仰いでゐらっしゃるらしく、さういふ点では、自己の基盤は整備されてゐると思ひます。
目に見えないものがある、といふことも確信されてゐるやうです。

人間が共通して持つ、こころの闇に降りていかうとすると、その基盤や見えないものがあるといふ感覚が邪魔をします。
邪魔といふより、守ってゐると言ふべきであるかもしれません。

私小説で掘り下げていき、人にさらす自己は、深く切り下げてゆくほど、人間一般、みんなのこころの深層であることがわかってきて、それで、他人の自分語りでしかない作品なのに、自分大好きな、自分にしか興味のない人が、次々と読者になって一つの文学のジャンルを作ったわけです。
近代の、特に近代化された日本の有様を示す現象だったと思ひます。

誰の心も深く深く掘り下げれば、見えて来るもの、つまりは、こころの闇、それに関して、どれだけ何を書いても、なんの役にも立ちません。
それは、ひとのこころの闇に入り込む精神分析、そして、民族の集合的無意識の闇を学問的光りで照らそうといふ民俗学の成果を見れば明らかです。

文学だから、役に立たなくてもいいのですが、それが読み返したくなる文章で書かれてゐるところがやっかいです。

読まなければいいもの、知らないはうがいいものを、文学だからといふので読んで、それで何かふつーの人より自分は人生や人間の真実を深く知ってゐる、と思ひ込んだ凡人の群れが、近代小説の読者でした。

さういふ文学も読者も、もう時代遅れです。

新しい文学、新しい読者が必要です。

繰り返しますが、読み返したくなる文章から構成されるのは文学と呼ばれるものだらうと思ひます。
これからは、何を文学するか、それを選んでいく時代だと思ひます。
文才のある人には、どんなものをこれからの文学にするのか、その義務と責任があります。

あやのんさんは、取材して新聞記事的なものを書くのが得意ですが、それは読み返したくなる文章によって、新聞文学とかジャーナリスト文学とかいったものとして開花してゆくのかもしれない、とわたしは思ってゐます。


後記
この記事のコメント欄で、
(まはりくどいわたしの)あやのんさん論の、
的確な要約が読めます。( ´艸`)

以下、その代表例を二、三。

その人にしか見えない世界に気がついたあやのん記者が、その人に一番わかりやすく届けてくれる。。😘💕

まりりんさんのコメント@この記事のコメント欄

>その人にしか見えない世界に気がついたあやのん記者が、その人に一番わかりやすく届けてくれる。。😘💕<

あやのん先輩の観察眼・文章力・コミニュケーション力のいずれにも言及した神コメント‼️

M夫人@この記事のコメント欄

大賛成です!

堀間善憲さま@この記事のコメント欄

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