女も辛い

「男は辛い、哀しい。そして、つまらない」
と子供の頃から思ってゐたが、対人関係神経生物学の本を読んでから、男も辛いが、女もやはり辛いかもしれないと思った。

女は母親といふ役を担ふ。
母親である女の脳と乳幼児の脳は、情動の間主観的で非言語的な相互作用を通して、感情の双方向的調整を行ふ。
つまり、わたしたち人間は、好むと好まざるとにかかはらず、母親との関係によって脳の情動回路が形成された結果としてのパーソナリティを持ってゐる。

って、そんなことを言はれたら、ゾッとするではないか。母親であることは、とんでもなく大きな責任を背負ふこととなり、恐ろしくて母親なんてやれない。

わたしは幼い頃から、女になりたい、としきりに思ってきたが、そこに母親であることは含まれてゐなかった。
トランス女性たちも、おそらく、
女=女性−母親
としての女に憧れて性転換してゐるはずだ。

母親であることは、女性たちもなんとか女の中から排除しようとしてゐる。
今はせめて乳幼児の抱っこは男性にさせようとしてをり、将来は先端医療の力を借りて、男による乳房からの授乳はもちろん、妊娠出産も分担させないではゐられないだらう。

女=女性−母親
は、女性にとっても目標となってきてゐる。
現代の女性はもはや母親であることになんの喜びがあるのか、見当がつかなくなってゐる。

女は母親に生まれたわけでない。女に母性があるわけではない。母親なるものは女の属性ではなく、男性優位社会が女にだけ課せて来た養育義務であり、母性とは、女をそんな本能に操られる動物だと卑しめるための神話である、と現代の女性たちは教へられて育ってゐる。

現代の女性にとって、母親である喜びとは、子供が東大に入る、子供が有名人になるなど、わが子がなんらかの社会的地位を得たときにしか発生しなくなってゐる。
東大生ママになれたら社会的キャリアを犠牲にして子供を育てた甲斐もあるといふものだ。
だから、今の母親が子育てに熱意を持つのは、子供の学校教育か、プロのアスリートや芸能人の才能を子供が見せたときにそれを伸ばそうとするときだけだ。

母親役は、まだまだ、もっぱら女性に押し付けられてゐる。乳幼児との、情動の間主観的で非言語的な相互作用、感情の双方向的調整といったものはたいていは女性が担当させられてゐる。
脳と脳の非言語的情動交流の役割に関しては、社会通念を根本的に変へることで、徐々に男性に割り振っていくことはできる。
けれども、妊娠出産と乳房による授乳だけは、ここしばらくは、絶対に女性に押し付けられる。
それが無くなれば、女は、セックスを楽しむだけでいい男と、やっと平等な人間になれる。
セックスが妊娠出産と結びついてしまひ、乳房が授乳にも使はれてしまふ性である限り、女は、辛い。
男であるのと、同じくらゐ、辛い。


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