過剰に丁寧な人

わたしは誰に対しても、ですます、で話す。
丁寧だ。

過剰に丁寧だと、慇懃無礼ともとらへられて、言葉は丁寧でもなんだかイヤミだ、どこか毒を含む、といふことを、敏感な人は察知する。
鈍感な人でも、何年つきあはうとも、過剰に丁寧な人を好きになることは無い。
過剰に丁寧な人は人に気を遣ってゐる。
人を怒らせたくない。
人に嫌はれたくない。
なぜか?
人が、人間が、嫌ひだからだ。
自分が持つ他者への怒り、嫌悪が相手に知られると攻撃されると怯へてゐるのだ。
過剰に丁寧な人にとっては、他人はすべて敵である。
この世とは敵しかゐない場所。
生きるとは、敵に、自分がその敵の敵だとさとられないやうに朝から晩まで演技することなのだ。
どうしてかうなったのか?
生まれてすぐは、信頼しか知らない。何故なら、子宮は絶対安心を与へてくれる時空だったからだ。

子宮から追ひ出された後の2年、世界は信頼できるのか、安心して生きられるのか、他者とは敵なのか味方なのか、敵味方の割合はどんなものか、それら基本的信頼に関する<わたしにとっての事実>を、母親のからだを通して学ぶ。
だから、その後の人生で、その時にからだに入った
世界と他者に対する信頼感もしくは不信感は一生(身体を消さない限り)訂正することは出来ない。


わたしは乳房が欲しい。
平らな自分の胸が悲しい。
寂しい。
心細い。
そして、怖い。
乳房も無く、どうやって
この敵だらけの世界を生きればいいのだらう?

この世には味方より敵が多いと思ふ男が増えると、異様なまでの巨乳の少女たちが性欲のファンタジーのヒロインになってゆく。
母親こそがママンこそが、つまるところ、乳房こそが、男にとって、唯一、絶対な信頼と絶対の安全を与へてくれると信頼できるものだからだ。

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