有神論的実存哲学と暗号文字について
わたしは、神と神からのメッセージに関しては、有神論的実存哲学者とされるヤスパースの考へに親しみを感じてゐます。
「神性は暗号の中に示現、あらはれるが、
しかも隠れたままである。」
(『臨床哲学』加藤敏より孫引き)
このヤスパースの言葉は、
なにごとのおわしますかは知らねども
かたじけなさに涙こぼるる
の仏僧である西行法師が伊勢神宮で詠んた歌と重なるわけで、
この見方を取れば、聖書は神の言葉であるといったキリスト教などの一神教の根本的なドグマは否定されます。
「神性は暗号の中に示現、
あらはれるが、しかも隠れたままである。」
ここのところで踏みとどまれないと、第二、第三の聖書は、バシャールやらアシュタールなどといった高次元の存在からの言葉として、人間言語へと解読されてしまひます。
これは、裏に回って見てみると、暗号文字として受け取ることの拒否として捉へることも出来ます。
解読されて人間言語となったものは集められ、編纂されて、教への書、つまり経典、聖書となってゆきます。
「あらはれるが、しかも隠れたままである。」といふことに耐へられず、ことさらにチャネリングや神との直接対話などをして、受け取った内容を英語や日本語などの人間言語にしたとき、それらは、その言語の話者の内面にある知識や見解や願望を語るものとなります。
チャネラーや対話者とは違って、受け身的なスピリチュアルメッセンジャーといふ存在があるとわたしは思ってゐます。
スピリチュアルメッセンジャーは、ことさらに語らうとか伝へようとかいふ自我の意図を持たないのに、前触れもなく、メッセージを受け取る人のことだと思ひます。
メッセージは、お地蔵さんの姿を描きながら突然の涙が流れるといった事態として伝へられたりするものです。
「哲学的実存は、
隠れたる神に直接近づかないことに耐へる。
ただ、暗号文字だけが、私が神に用意してゐるときだけに、語るのである。」
なんだかわからないが、涙こぼるる、涙が流れる、
これは、あらはれるが、しかも隠れたままであるところの、暗号文字の一例だとわたしは信じてゐます、
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