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【短編小説】憧れの姉

 今日から五月の連休に入というのに、目覚まし時計に叩き起こされた訳でもないのに、いつもと変わらない時間に目が覚めてしまった。
 両親はすでに朝食を済ませたようで、テーブルについたままお茶を飲みながら、父は新聞を開き、母はテレビを眺めていた。
「お姉ちゃん、連休中は帰ってこないって。仕事が忙しいみたいで」
 俺が尋ねもしないのに、母が言った。
 姉は東京の大学に進学し、その地で出版社に就職した。グルメ雑誌の編集の仕事をしたいと言っていたが、実際なにをしているのか俺は知らないし、興味もない。話してくれる人は近くにいるのだが。
 俺が生まれ育った田舎町では、姉は優秀な人、というのが近所の評価らしい。県下でも屈指の進学校に入学し、全国的に見ても高偏差値の大学に合格したのだから、そうなのだろう。自分の望んだ未来を、自分の力で掴みとっていく。そう考えると、姉が凄い人のように思えてくるが、六つも年が離れている俺にとって、姉は、あまり身近な存在ではなかった。
 ぼんやりとテレビを見ながら、いつもより時間をかけて朝食をとる。ごちそうさん、と俺は手を合わせ、空いた食器を流しに置いた。
「ちょっと学校に行ってくる」
 俺の言葉に、申し合わせたように両親はこちらを向き、あからさまに驚いた表情を浮かべた。
「忘れ物を取りに行くだけだから」
 そう続けると、また申し合わせたように、両親は力が抜けていたさっきまでの表情に変え、視線を元に戻した。姉ほど期待されていないのは判っている。期待されても、しんどいだけだ。
 夏にはまだ早いが、天気の良い日は薄着でも充分。俺は半袖のTシャツに学ランを着てウチを出た。
 三階建てのアイボリーの建物が三つ並んでいる公営住宅の、一番北側の三階の自宅。そのドアを開けると、田園風景の向こうに海が見える。階段の踊り場からは、緑が深くなった木々の向こうに青く輝く山並みが見える。自然豊かで眺めは良いが、それ以外はこれと言った特徴がない田舎町。
 まるで自らの所有物のように、ドアや内装に塗ったり貼ったりしている人もいる。退去時は原状回復が原則のはずなのに、もう賃貸住宅であることすら忘れてしまうほど、入居者が入れ替わることは殆どない。俺自身、賃貸住宅に住んでいるという感覚は薄く、それを意識するようになったのはここ二年くらいだ。
 平日の朝とは違い、車も歩行者も少ない。自転車をこぐ俺の足を止めるのは赤信号くらいで、いつもよりスムーズに学校に着いた。職員室で鍵をもらい、いつも放課後に自分たちがバンドの練習に使っている地学準備室に向かう。
 この高校に軽音楽部はない。道楽半分でバンドをやっている俺たちが、空いた教室を使わせてもらえるのは、いわば学校側の温情だ。生徒会の役員である楠葉月の力添えのおかげもある。
 俺が入学した時には、すでに物置のようになっていた地学準備室は、北校舎四階の廊下の突き当り。普段から生徒が来ることもない場所だから、休日の今日も、廊下に満ちた空気を震わせるのは俺の足音だけだ。
 鍵をあけ教室に入ると、昨日ケースに入れたギターが、やはり黒板の下の壁際に置いたままになっていた。連休中はウチで弾こうと思っていたのに、帰宅してから、自分の手にそれがないのに気付いた。連休中は特に予定もなかったのだけれど、自分でも意識しないどこかに浮かれた気分があったのかもしれない。
 目的のものを持って帰ろうと思ったが、俺はそれを近くのテーブルの上に置いた。グラウンドが見える北側と、各学年の教室が見える南側の、両方の窓を開ける。ぬるく淀んでいた空気が、まだ冷たさが残る朝の空気に入れ替わっていく。
 どうせウチに持って帰っても、アンプで音を出すことはできないのだ。集合住宅に住んでいる都合上、ヘッドフォンを使うしかない。
 俺は学ランを脱いで、椅子の背もたれにかけた。ケースからギターを取り出し、コードをつないでアンプの電源を入れる。
 高校に入学してしばらくして、バンドをやろうと声を掛けてきたのは、中学校も同じだった広橋だった。
 女子にモテたいから。
 広橋の言った理由には呆れたが、もともと音楽に興味があった俺にとって、始めるきっかけは何でもよかった。同じクラスの黒沢と西川も誘って、見様見真似のバンドみたいな活動が始まった。音楽的な目的意識には乏しいものの、だから今でも続けていられるのかもしれない。
「やっぱり智弘だった」
 何曲か弾いたところで、誰かがこちらを覗いているのに気付いた。橘葉月だった。ウチを出てくる時、葉月の赤い自転車がなかったから、学校に来ているのだろうと思ってはいた。
「一人?」
 俺は頷いた。
 兄貴の影響でドラムを始めた黒沢は、農家の次男。連休中は田植えの手伝い。キーボードの西川は、演奏は上手くはないが、パソコンを使ったデジタル楽器の自動演奏が得意。新しい機材を買う資金を貯めるために、連休中はアルバイト。ベース・ボーカルの広橋は、連休中は女子との予定がある……と自己申告していた。教室でも女子たちとはもっとも距離が近い男子の一人だが、食事をして、カラオケで歌い、でもそれ以上の仲にまで進まないと度々ため息を漏らしている。
 広橋には悪いが、サル顔の彼はどちらかというと男子に好まれるタイプで、連休前半は女子たちと楽しいだけの時間を過ごし、後半は男子たちと友情を深める濃密な時間を過ごすのではないか、と俺は勝手に予想している。
 そんな俺はというと、連休中は特に予定もなく、わざわざ学校に出てきてギターをかき鳴らしている。広橋が見たら、寂しくないか? と言うに違いない。
「葉月は、生徒会の仕事か?」
「うん。連休が明けたら、体育大会があるから、それで」
「運動部の連中以外は、憂鬱なだけの行事だな」
 俺の言葉に、葉月は苦笑いを浮かべた。
「授業の時間を増やして、進学率を上げる。それを理由に体育大会を廃止したらどうか、っていう意見もあるのよ。主に文化部の人たちからなんだけど。でも、もしそうしたら、同じ理由で文化祭を廃止しようって運動部の人たちが言い出すんだろうね」
「そういうのって、生徒会で決めることができるのか?」
 俺が尋ねると、葉月は首を横に振った。
「学校行事って、一応は生徒会のみんなが実務的なことをやってはいるけど、基本的に学校側の都合で決められてるから。私達が出来ることって、こんな意見があるって学校側に伝えることくらいで」
 そう言って、葉月は表情を曇らせた。
「今日だって、仕事の割り振りを決めたり、各クラス委員にそれぞれの競技の出場選手を決めておいてもらったり、そんな内容だけだったし……張り合いがないのよねぇ」
 不満そうな葉月の話し方を聞いていると、だったら生徒会の役員なんて辞めてしまえばいいのにと思ってしまうが、そうしないのは、何かしら彼女なりの理由があるからだ。
 物心がついた頃から、お互いに関わるのが当たり前だった。家族ほど一緒にいる間柄ではないけれど、ずっと同じ棟に住んでいるのだ。俺なりに彼女のことを理解しているつもりでいる。大人しい顔立ちとは裏腹に、葉月は意外に頑固者だ。気持ちに素直なだけ、と本人は言っているけど。
 それを解ってはいても、俺で良かったら力になるよ、なんて社交辞令くらいしか俺には言えない。葉月に恩義は感じていても、生徒会の活動に興味はない。
「生徒会の仕事、もう終わったのか?」
「うん。午前中だけだったから。もうお昼だし」
 葉月に言われて、俺は学ランのポケットからケータイを取り出した。間もなく正午だった。もうこんな時間か、と素直に驚いてしまった俺を見て、葉月は本当におかしそうに笑った。
「智弘、上手くなったよね。私が聞いてても判るもの」
 始めた理由は何であれ、二年も続けていると、それが日常になる。次第に出来なかったことが出来るようになる、理想として描いていた姿に近付いていく、それが嬉しくて増々のめり込む。一年生の頃より上手くなったと自分でも判る。
 だから、自分にどれだけのことが出来るのか、試してみたくなる。
「もう一曲弾いたら、帰るよ」
「まだ弾くの?」
「ウチじゃ、アンプで音を出せないから」
 最近流行っているアニメの曲を、俺は弾いてみた。窓際の柱に寄りかかるようにして葉月が口ずさむ。
 二年間、バンドとしてそれなりに続けてきたが、オリジナルの曲は数えるほどしかない。詩も曲も、ほとんど俺が考え、俺と西川で編曲した。自分としては悩み苦しんで、もだえながら生み出した曲なのに、文化祭ではアイドルグループやアニメの曲のコピーのほうが、皮肉にもウケがいい。
 弾き終わったギターをケースに仕舞い、俺はそれを教室の隅に置いた。
「持って帰るんじゃないの?」
「持って帰るつもりだったんだけど、気が変わったよ。どうせ連休中はウチにいるだけだし、運動不足解消に学校まで自転車で来るのもいいかと思って。それに、ウチでヘッドフォンで弾いてても気分が乗らないから。コイツは置いていく」
「連休中も、毎日、学校に来るつもり?」
「なかなかの愛校心だろ、生徒会役員殿」
 俺が含み笑いを作ってみせると、生徒会長にでもなったら、と葉月は言い、おもむろに体の向きを変え、開いた窓からグラウンドを見下ろした。
「運動部の連中って、楽でいいよな。文化部だと、休みの日に学校に来る時にも、制服を着てないと先生にいろいろ言われるのに。運動部だったらジャージでも何も言われないんだから。ウチの学校、変なところで厳しいよな」
 窓を閉めながら、俺は言った。
「俺なんて、職員室でここの鍵をもらうためだけに、制服を着てきてるようなものだもの。まぁ、学ランだから、下は何を着てても判んないだけ、女子よりは楽だけどさ。女子はブレザーだから、ちゃんと着替えないといけなくて、男子より面倒だろ」
 俺の言葉に、葉月は何も反応しない。窓を閉めていると判っているはずなのに、ドアに一番近い開いたままの窓の前から動かず、窓枠を両手で握りしめるようにして。運動部の練習であちこち蹴散らされたままの誰もいなくなったグラウンドをじっと見下ろしている。
 そこの窓を閉めたいんだけど、とか、そこの窓を閉めておいてくれよ、なんて言うのは、膨らんだ風船に針を刺すようなものだ。どっちにしろ、膨らみ切れなくなった風船は破裂するのだが。
「あのさぁ……」
 葉月が口を開いた。
「お、お姉ちゃんとは、上手くいっているの?」
 お姉ちゃんというのは、俺の姉ではない。この場合、葉月の四つ上の姉、大学生の弥生のことだと受け取るのが正しい。俺と弥生は一応、恋人という関係にある。
「まぁ、そこそこ上手くやってるよ」
 そう、と短く答えてから、葉月はゆっくりと息を吸った。
「あ、あのさぁ……」
 本当に風船が破裂するのはここからだ。俺は、心の中で身構えた。
「お、お姉ちゃんより、私を選んで!」
 広橋のような下心はなかったが、バンドを始めて、文化祭のライブに出てから、俺は知っている女子はもちろん、知らない女子からも、親しい間柄になって欲しい旨を伝えられ、そのすべてを断った。恋人がいるから、という理由で。俺にとって弥生は、都合の良い存在だった。
「私たち、もう三年生じゃない。これから受験勉強に本腰を入れなきゃいけないし、気持ちに一区切りつけたくて、それで……」
 高校を卒業した後のこともはっきりしない、別々の道を進み顔を合わせることもなくなるかもしれない。そんな言い訳をずっと求めていた俺とは違う。尊敬というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、葉月のそういう素直さ、実直さに対して俺が抱いている感情は、やはり尊敬と言うほかない。
「もし葉月が、弥生さんから俺を奪ったとして、それで二人の仲が険悪になったり、ってことは考えなかったのか?」
 俺が尋ねると、葉月は小さく笑った。
「考えたよ。でも、考えても仕方ないもん。お姉ちゃん、ウちでは智弘の話って全然しないし、私から訊くのも変だし……。恋人って言ったって、そんなふうに見えないし……。どんな結果になるか判んないから、もう言っちゃえって思って……」
 正直なところ、当人である俺としても、恋人という実感は今ひとつない。というか、俺と弥生との関係に、俺自身が疑問を抱き続けている。
「とりあえず、そこの窓を閉めたいんだけど」
 俺に言われ、あわてて葉月が窓を閉める。本当にまわりが見えなくなるほど思いつめていたらしい。葉月の心情が察せられて、無下にしてはいけないと改めて思ってしまう。
 いや、そうじゃない。自分の気持ちに素直になれば、俺は葉月の気持ちを無下にできない、単純にそれだけのことだ。
「葉月の気持ちには、応えたいと思っているから」
 俺が言うと、葉月は笑顔を浮かべたけれど、嬉しさ半分と言った表情でしかなかった。
 もし俺が葉月の気持ちに応えるとしたら、ひとつ越えなければならないハードルがある。
 帰宅後、俺は弥生に連絡した。遭えないか、と。
 
 夕飯を済ませてから、俺はウチを出た。階段を二階までおりると、ちょっと車を借りるね、という弥生の声が聞こえた。まもなく202号室のドアが開く。
「グッドタイミングぅ」
 葉月に聞こえていたら……。そう思い、俺はなにも言わず、微笑むだけにしておいた。
 二人並んで階段をおりる。まだ午後八時を少し過ぎたくらいだというのに、外は物音を立てることすらはばかられるほど静かなものだ。俺と弥生の足元だけが、やけに大きく響いている。
 一階に向かう途中の踊り場で、弥生が立ち止まり、上目遣いに俺のほうを振り向いた。こういう思わせぶりな仕草を見せることはあっても、抱き合ったり、キスしたり、そういう恋人同士らしい振る舞いを、俺はもちろん、弥生も求めはしない。
「夜のドライブと洒落込もうぜぇ」
 弥生の一言で、止まっていた空気を二人の足音が揺らし始めた。
 弥生の母親の車で、二十分ほど走る。行先は、隣町にあるショッピングセンターの屋上駐車場。この辺りにある、もっとも高い建物のひとつ。夜景と呼ぶには薄っぺらな街明かりが、ここが海と山に挟まれた狭い世界であることを表している。
 午後十時まで営業しているショッピングセンターの店内を、俺と弥生はアテもなく見て回った。
「今年も、文化祭でライブやるの?」
 家電製品を扱っているショップの店先に、キーボードが置いてある。鍵盤を無造作に押しながら、弥生は訊いてきた。そのつもりですよ、と俺は答える。
「この間、作曲のオーディションに応募したって言ってたの、どうだった?」
「ダメでした。今回もキーボードの奴と一緒に作ったんですけど……。こういうことが何度も続くと、段々慣れてきちゃって、あんまり落ち込まなくなるんですよね。いい事なのか判んないですけど」
 俺が肩を落としてみせると、元気出しなって、と弥生が背中を撫でてくる。
 ファストフード店でソフトドリンクを買って、屋上駐車場のエレベーターホールのベンチで一息つく。連休に入ったからだろう、閉店一時間前になっても客の出入りがあり、駐車場もまだ半分ほどが埋まっていた。
 それでも、窓から下を眺めていると、人も車も、入って来るより出ていくほうが多い。閉店時間は間違いなく近付いている。自分が向き合うべきことから目を背けている暇はない。
「恋人という関係を、解消したいと思っています」
 葉月ではないが、考えても仕方がない。端的に俺は言った。
「好きな人が出来たとか? あたしに飽きたとか?」
「葉月に、気持ちを打ち明けられました」
 俺が言うと、弥生は、へぇー、と驚いてみせた。
 まだ氷が残っている炭酸飲料のストローに、俺は口をつけた。弥生はあまり負の感情を表に出すような人間ではない。とは言え、一応は別れ話だ。緊張せずにいられるほど、俺は素太い神経をしてはいない。
 恋人になって欲しい。
 弥生がそう言ってきたのは、俺が高校に入学して半年ほどだった頃。文化祭でライブに出演した後だった。葉月と一緒に観ていた。弟みたいなアンタが、今までと違って大人に見えた。そんなことを理由にしていた。
 俺にとって、六つも歳の離れた実の姉である智美に比べて、四つしか離れていない弥生のほうが、姉としての印象が強い。俺が高校受験の勉強をしていた頃は、もっとも身近な経験者である実の姉は、東京の大学に通っていて実家にはいなかった。代わりに、弥生にはずいぶん助けてもらった。
 同い年の葉月と同じくらい、弥生には親しみを持っていた。姉のような存在として。それは、恋人になってからも変わらなかった。だから、他人には言えないことも言えた。時には、気兼ねなく甘えられた。
 弥生にしても、同様に思えてならない。一緒にいる時間は増えたが、それだけだった。姉と弟みたいな関係性に、変化があった気はしない。
 それを弥生に問うてみたことはあった。返ってきたのは、そういう関係だってあるでしょ、と本気なのか、はぐらかしているのか判らない答えだった。そう言われてしまうと、確かにそのほうが気楽でいいかもしれない、と俺は納得してしまう。
「そうかぁ。葉月がねぇ」
 そう言って、弥生は窓の外に顔を向けた。駐車場から車が出ていく。埋まっているスペースが、さっきより少なくなっている。
「お姉ちゃんは……智美さんは、元気?」
「仕事が忙しいようで、連休中は帰って来ないみたいです」
 ガラス窓の枠に肘をついた弥生は、羨ましい、と呟いた。
 弥生にとって智美は、姉のような存在だったのではなかろうか。今更ながら思ってしまった。同じ東京の大学を志望して叶わず、弥生は地元の国立大に進学した。タウン情報誌を出している会社でアルバイトをして、卒業したらそのまま正規雇用されることが決まっているのだと言っていた。
 自分には、それくらいがお似合いなのだ、とも。
「アンタのお姉ちゃんは、頭のいい人だったよ」
 弥生は微笑んで、ゆっくりと口を開いた。
「あたしさぁ、中学一年の時に好きな先輩がいたのよ、三年生の男子の。でも、告白する勇気がなくってねぇ……。それを智美さんに相談したら、恋人としてとりあえず自分がその男の子を確保しておくから。慌てずに告白する覚悟を決めればいい、って言ってくれたんだ……なのにさぁ、そんな覚悟も決められなくてってねぇ。その人と智美さん、同じ高校に行ったんだけど、結構レベルの高いところだったから、あたしの成績じゃとても合格は無理で……結局、手も足も出なかったなぁ」
 あははっ、と弥生は小さく笑った。
「アンタがライブに出てるのを観ている時の葉月は、すごくいい顔してたなぁ。少女マンガのヒロインみたいに、目がキラキラしてたよ。でも、文化祭には不満を漏らしてたっけねぇ。生徒によって意欲に差があるとか言って。運動部の生徒の中には、朝と午後の点呼の時だけ学校に来て、それ以外はサボっちゃう生徒もいるじゃない。同じ学校に通ってたって、そんなものなのにさぁ、あの子、あたしと違って、学校好きな真面目ちゃんだから。そのくせ、いろんな事を同時にこなせるほど立ち回りが上手い子じゃないしね。だから……」
 ベンチに座り直した弥生は、ソフトドリンクが入ったカップを空にして、大きく息を吐いた。
「あの子に頼まれたワケじゃないんだけどさぁ。あたしなりに気を利かせて、お姉ちゃんっぽいことをしてみようって思ったんだけど……役目を果たせてよかったよ」
 弥生は、空になったカップを俺に差し出した。俺も自分が持っているカップを空にして、ダストボックスに放り込む。
 形だけとはいえ、姉に恋人がいたというのは初耳だった。そんな素振り、まったく見せたことがない。弥生がウチでは俺の話はしない、と葉月が言っていたのを思い出した。
「その……ウチの姉ちゃんと恋人だった彼氏って、どうなったんですか?」
「東京の大学に行ったよ」
 ベンチから立ち上がり、弥生が答えた。
 一緒に東京で落ち着くみたい。そう言いながら、弥生が駐車場に出ていく。
「あの」
 とっさに弥生を呼び止めてしまった。
 弥生には、小さい頃から世話になってきた。何かと面倒をみてもらった。だから少しでも何か恩を返すことができたら……そんな考えが、頭の中を駆け巡った。
 なのに、俺の口を突いて出てきたのは、虚しい言葉だった。
「俺で良かったら力になりますよ」
 弥生は、一度だけ俺のほうを振り返り、また車のほうに向かって歩き出した。
 弟のくせに……。
 そんな声が聞こえた気がしたが、空耳だったのかもしれない。
 
 午後九時を過ぎ、空いた幹線道路を弥生は飛ばした。こんな時、自分が運転できればと口惜しんだ。助手席で、車窓を流れる街明かりを眺めることしかできない、そんな自分がもどかしかった。
 俺で良かったら力になりますよ。
 さっきの自分の言葉を思い出して、今はただ無事に家にたどり着くことを祈るしかない己を恥じた。
「おかえりぃ」
 ウチに帰ると、リビングのソファに姉が寝転んでいた。
「連休中は帰ってこないんじゃなかったのかよ?」
 驚いて俺が問いただすと、姉はだるそうに体を起こした。
「どうにか仕事は切り上げたんだけど、もう何もする気にならなくてねぇ。ご飯の用意をするのも億劫だし、最後の力をふり絞って、こっちに帰ってきちゃった」
 テーブルの上に置いてあるテレビのリモコンを手に取り、東京とあまり変わらないわねぇ、とチャンネルを何度も変える。
 俺は、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。コップをテーブルの上に置き、麦茶を注ぐ。
 なぁ、姉ちゃん、と俺が話しかけると、んん? と姉が鼻で答える。
「結婚とか、まだしないのか?」
 麦茶を注ぐ手が震えて、少しこぼれてしまった。キャップもうまく閉められない。
「弥生ちゃんから、何か聞いた?」
 姉がこちらを振り返る。さっきまで一緒だった、と俺が答えると、そう、と姉はまたテレビのほうに向き直った。
「お盆休みくらいには、ちゃんと紹介できると思う」
 それだけ言って、姉はまだソファに寝転がった。
 俺は、麦茶を一気にのどに流し込み、空になったコップを流しに置いた。
「弥生ちゃんは、男を見る目はあると思うよ」
 リビングを出ていこうとする俺に、姉は言った。
「だったらさ、礼のひとつも言っておいてやれよ」
 ソファに寝転がったまま、判ってる、と姉は答えた。
 
 次の日も、俺は学校にいた。制服を着て、職員室で鍵をもらい、地学準備室に入ったとたんに学ランを脱ぐ。
 窓を開け、部屋の空気を入れ替え、ギターを抱えたところに葉月がやってきた。今日も生徒会の仕事かと思ったら、俺が出掛けるのが見えたから自分も学校に来たのだという。わざわざ制服に着替えて。
「もう慣れたよ。二年も着てるんだから」
 セーラー服のほうが好きなんだけど。入学した頃は、度々そう言っていたのに。
 椅子にかけた葉月が、あのさぁ、と言いにくそうに話し始める。
「昨日、お姉ちゃんと……揉めた?」
 何と答えていいのか判らないまま、俺は苦笑いを返すことしかできなかった。
「昨日の夜、お姉ちゃん、帰ってきてから失恋したって言って、缶ビールを飲みながら涙ぐんでて……。私のせいで智弘にフラれたからかな、って思って……」
 そう言いながら、葉月は俯いた。案外、ウチに居づらくなって学校に来たのかもしれない。
「私が何か言っても、アンタのせいじゃない、って言うばかりで……」
 俺は頷いた。そう、葉月のせいじゃない。
 弥生が失恋したというのなら、それを決定付けたのは俺の姉だ。
 俺が何曲か演奏するのを、時には口ずさみながら葉月は聞いていた。途中、売店でジュースを買い、他愛ない話をしながら、また何曲か演奏する。
 広橋に言いたい。女子とお付き合いをしたいのなら、こういうところから始めろ、と。
「智弘は、大学はもう決めたの?」
「東京の大学に行こう、って西川と話してる」
「西川くんって、キーボードの?」
 うん、と俺は答えたが、それ以上のことは言わない。
 卒業するまでに、俺は葉月に、どれだけ自分の話が出来るだろう。五年後、十年後、もし葉月と一緒にいたとしたら、さすがにオーディションに応募していることは知られているだろう。性懲りもなくギターを弾き続ける俺に、まだ西川が付き合ってくれていたらの話だか。案外、西川だけがプロになっているという可能性だってある。別のものに興味を持った俺が、ギターを手放している可能性だって。
 将来なんて判りゃしない。未来の自分を想像してみたって、現実感なんて持てやしない。
 だけど今よりずっと先、もしスーツを着て仕事をしながらも、俺がギターを手放せずにいたとしたら、そんな俺に葉月が愛想を尽かさずにいてくれていたとしたら。
 その時は、せいぜい家族に迷惑をかけない夫でいたい。

(終)


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