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ものさし

小学校の頃、「30㎝の竹のものさし」を学校でもらう。しかし、いつしか無くし、思い出すこともなくなる。その理由は、筆箱に入るサイズのものだったり、メジャーだったり、持ち運びと機能性を備えたものに代わってしまうからであると言える。

その竹ものさしの存在を思い出させてくれたのは、数年前、我が子が小学生のときに、私世代と同じように学校でもらってきたからだ。私はそれに子供の名前をかいてあげた。そして、中高生まで成長した今となって、私と同じように子供たちは、それを使うことも探すこともなく、今、私の部屋の片隅に置かれ、たまに背中を掻いたりする道具となっている。
ところで小学生の頃、あのものさしを、どのように使っていただろうか?全く思い出せない。

しかし、その竹ものさしによる確実なる効果と実感できるものがある。それは、大体30cmというのはこれくらいだという基準、いわゆる「ものさし」である。

人に大きさを共有するときに、「釣った魚が30cmくらいだった」とか、「カラーボックスの奥行は多分30㎝くらいだから・・」とか、30㎝がどれくらいかという感覚や基準を持つことで、人と人とが通じ合いやすい。

この「ものさし」はいろいろなところに存在する。東京ドーム〇個分、TOEIC〇〇点、年収〇〇万円、小さじ大さじ〇杯、星〇つ、年利〇%、60歳定年、etc.

「ものさし」情報を効率的に共有できれば、既成概念のようなもので、意識を飼い慣らされたりもする。

私には3人の中高生の子供がいる。その子供達は私達夫婦が持っていた「ものさし」にはおさまらず、彼らもそれを払いのけるようにして我が道を進む。

竹ものさしに続いて思い出したことがある。
それは、私も中高生時代、自由になりたかったということを。

これも、手相に「ますかけ」を持つ者の特性なのだろうか?

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