桜屋敷を通る風/第13話
13.梅雨の終わりに
太平洋高気圧は力の出し惜しみをしているようで、雨の季節の終わりは告げられてはいないが、雨が降っても晴れても、最高気温は先週よりも高くなった。
雨上がりの日差しの下は何もかもを蒸し焼きにしそうで、日向ぼっこの石の上には、緑のサンダルだけが体を火照らせて座っていた。
クロもプーも昼寝の場所は縁側の日陰か、午後のお日様になると日陰になるピアノの部屋の前のコンクリートの所だった。
そうやって親子で、夏の初めを桜屋敷の庭で過ごした。
もちろん、クロはプーを置いて公園やトラの家に出かけることはあった。でもそれは、香菜か咲恵のどちらかがずっと家に居そうな時だった。そして暗くなるとプーと一緒に家の中で過ごすのが日常になり、ルナとはほとんど会うことがなくなってしまった。
プーが公園との間の塀を超えられるようになれば、広い公園まで一緒に行きたいクロだったが、塀を超えるにはプーまだは小さかった。
それでもプーはもうお乳を卒業して、クロと同じキャットフードのカリカリを食べるようになっていた。
このカリカリに移る前の少しの間、猫缶と香菜たちが呼んでいた缶詰のごはんがとても美味しかったので、次はいつ出してもらえるか?と食いしん坊のプーは心待ちにしていた。
「お母さん、ボクね一番好きなのは、小さめの缶に入っていて、とにかく香りがよくて、やわらかで何ともいえないまろやかなやつ。」
魚の身をほぐしたようなタイプの大きな猫缶もあったが、それよりも量は少なかったけど柔らかい小さめの猫缶が忘れられないとプーは言った。
プーはよく食べたので丸々として毛艶もよかった。左右対称のハチワレの黒い所で、透き通ったブルーの瞳がクルクルとよく動いた。その瞳は何かに熱中した時などには、クロと同じ深い海のような色に変わった。
ぽっちゃりとした丸顔も可愛かったが、後ろ姿を見るとお団子のような丸いしっぽがいつもパタパタとプーの後ろをついて回り、走っていても座っていても可愛かった。
悲しい別れから日が経つにつれ、心の起伏は均されていった。決して忘れることはないけれど、悲しくないと自分に思い込ませたことで悲しみの色は次第に明るく塗り直されたようで、その感覚に咲恵は癒されていったのだった。
それはクロにもよく伝わった。後悔と謝罪に明け暮れていた時より、小さな喜びや発見を分かち合えた時、お互いが親密になれた。それが癒しになったようで
「気持ちを伝えられることが本当に嬉しい」と言っていた。
クロと咲恵は、昼間の家事が一段落した時や、みんなが寝静まった夜に、お互いに小さな出来事を話すひと時を楽しむようになったのだった。
「今日な、晩ご飯できたから呼んだのに、香菜も友里もなかなか食べに来ないからな、腹立って一人で食べて片付けてしもてん。そしたら、呼んだ声が聞こえへんかったて、香菜と喧嘩になってん。それで、ごめんなさいも言わないし、仲直りもしないで寝てしもたわ。私はきちんと謝る癖をつけた方がいいと思うし、こっちはなんとなくうやむやにされた気がして…子ども相手にこんなこと思ったらあかんと思う?」
と、咲恵が猫相手に愚痴をこぼす。すると、
「親子なんてそんなもんじゃないかしら?決着なんてついてなくても、次の朝には普通に一緒にご飯を食べられるってことが素敵なのよ。」
と、クロがトラからの請け売りの大人な答えを出す。また反対に
「プーはのんびり屋さんで、いつまでも甘えん坊な気がする。独り立ちできるのかしら?」
とクロが心配すると
「それは今のうちだけやと思うよ。あっという間に大きくなって、今度はこっちが寂しくなる時がくるわ。甘えてくるうちは、しっかりと甘えさせてあげてね。」
と、咲恵が先輩風を吹かせることあった。
近頃クロは家の中でビクビクすることはほとんどなかったのだが、居間や台所など部屋の中には入ろうとしないのが、クロの遠慮がちな性格を表しているようだった。
そして、クロは香菜ちゃんとも話ができるようになりたいと思っていたのだったが、香菜の方は最近、学校のことや友達との約束やなんかで忙しそうだった。もちろんちゃんと世話をしてくれるのだが、家に居る時はプーばかり相手に遊ぶのだった。
プーは、犬みたいに香菜ちゃんが投げた猫のおもちゃをくわえて持って来るのが得意だった。廊下の端から端まで走り回ったり、紙袋の中に飛び込んで笑わせたりと、とにかく元気で快活だった。プーの存在が香菜や家族の笑い声を増やして、家の中がどんどん明るくなっていった。
急に姿を見られなくなった3匹の子猫たちへの香菜の思いは、プーが良く懐いたことで、埋め合わせになったかもしれない。だとするともう、その話には触れないほうがいいにしても、香菜と他愛ない会話ができるようになりたいとクロは思うのだった。
そんなある日のこと、香菜は風邪をこじらせて寝込んでしまった。
寒い時期ではないので、咲恵はそんなに心配はしなかった。ただの風邪だろうからと直ぐに病院に連れて行かなかった。しかし高い熱が下がって4日も経つのに微熱が続き、下がりきらない熱のせいで食欲もなくなり、余計に回復が遅れる悪循環になっているようだった。
昼間は平熱で、これで明日はよくなるかと期待しても、また夕方から熱が上がる。そんな感じでずるずると日が過ぎていき、体調はなかなか良くならなかった。
今日はさすがに病院に連れて行こうと、ぐったりと元気のない香菜を自転車の荷台に座らせ、咲恵は自転車を押してクリニックに連れて行った。
診断の結果は、特に難しい病気ではなく夏風邪が長引いているのだろうということだった。
この家の場所は、公園に向かって行き止まりになっている道の一番奥にあった。家から学校に行くにも買い物に行くにも、緩やかではあるがとにかく坂を登って行かなければいけない。行きはよいよいの逆で、買い物や駅からの帰りに重い荷物を持っていたり、疲れていたりしても惰性で歩けるのが利点ではあるが、それも坂を登ったからこそのことである。
今日、家から一番近いクリニックを探して香菜を連れて行ったのだが、
「子どもが熱出したり、すごい雨の日やったりすると、車の免許取っとけばよかったって後悔するねん。せっかく家に車があるのに…香菜の友達のお母さん、大雨やったら学校まで車で送り迎えしはるんやて、羨ましそうにいうてたわ。」
その夜、咲恵はクロ相手にこぼした。
「それもきっと今のうちだけよ。」
クロはそう言って、咲恵の手の甲に軽く鼻を押し当て、にっこりした。
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