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桜屋敷を通る風/第10話

10.香菜の小さな世界

 日差しの強さが増し、晴れた日は暖かいというより暑いという表現の方が合うようになってきた。それでもまだカラッとした爽やかな暑さだった。
 学校の帰り道、遅い午後の日差しを避けて影を選んで歩けば風が気持ちいい。重いランドセルを背負ってなければ、どこまでも歩いて行けそうだった。
 香菜の家から学校までは15分ぐらい歩く。真夏の通学は辛くなりそうだ。

 香菜の家のすぐ近くに住む美穂ちゃんと、もう少し学校に近いところに住んでいて家が散髪屋さんの裕子ちゃんと3人で話しながら帰り道を歩く。転校してきてすぐは、聞き役に徹していたが、近頃はだんだんと話せるようになっていた。

「ずっとこんないいお天気で、これくらいの気温が続けばいいのになぁ」
美穂ちゃんが、街路樹を見上げながら気持ちよさそうに言うと

「そうだね。あんまり暑いのは苦手。でもさ、春のお洋服ばっかりじやなくて、冬物のモコモコしたかわいい服とかも着たい。春と冬の繰り返しは?」

「えーっ、香菜ちゃんは冬派なんだ。私は、暑い方が好き。ノースリーブとかタンクトップとか、肩を出せる服が好き。それに海とかプールに入れないなんて寂しいよ。」
と裕子ちゃん。
 すらりと背が高くて、ひざ下が長くて、見とれてしまうスタイル。憧れと羨ましさとがため息に交じる。それに、お店兼自宅に置いているファッション雑誌をいつも見ているだけあっておしゃれが上手だった。

「そうだよね。プールがないのは寂しいか…。でもさ、あの夏の暑さはぐったりする。学校の帰り道なんて地獄だよ。溶けるぅって思うぐらい」

「そうそう。溶けちゃいそうって、絶対言うよね。」
「あー、アイス食べたくなってきた。」

 香菜は、ここの友達とは、これから初めての暑い夏を過ごすんだ。でもどこもよく似たもんなんだななんて、ぼんやり思った。そして、今まで通ったいくつかの小学校の帰り道を思い出した。そういえばいつも学校から家まで遠かったなぁ。それでどこの真夏の帰り道も水筒の冷たいお茶はとっくになくなってしまっていて、ランドセルがべったりとくっいて暑いんだった。ああ、やっぱり寒い方がいいなぁ、と。
 友達が別の話になっているのにも気付かず一人で夏の思い出に浸かっていると、目の前にひらひらと手が現れた。
「かーなちゃん!じゃあねー。バイバイ」
と裕子ちゃんが手を振っている。飛び起きたみたいに急いで「バイバイ」を言うと、ケラケラと笑いが起きて香菜も一緒に笑った。

 そこから、もう少し緩やかな下り坂を降りていくと、家はもうすぐそこだ。
 このところ香菜の心には常に猫たちのことがあった。無意識にノートや教科書の端っこに猫の絵の落書きをしていて、6時間目が終わる頃には「早くクロと話したい。子猫たちに会いたい」と教室の時計が気になって来るのだった。だから今日も美穂ちゃんとも分かれるとランドセルをカタカタ鳴らしながら走った。

 香菜は門を開けて入ると家の中に入らずに、ランドセルを背負ったまま庭にまわってきた。石の横に置かれた段ボール箱がポツンとあるのを確かめると、中がギリギリ見えるぐらいまでそっと近寄る。

 このとき、箱が空っぽなんじゃないかといつもドキドキする。
 そして、白黒の毛並みがチラッとでも見えたらほっとするのだった。
 常に別れを意識してしまうのが癖になってしまっているようで、クロがエサを待っているようになっても、夜に家の中で眠るようになっても、いつか居なくなってしまう予感は全然消えなかった。

 そろそろともう少し近付き、驚かせないように小さな声で「ただいま」と、声をかけながら箱を覗き込んだ。
クロは少し顔をあげて、ゆっくりまばたきをした。香菜には「おかえり」と言っているみたいに見えた。

 縁側のガラス戸を開けてランドセルを置き、もう一度猫たちの箱の横にしゃがんだ。
 子猫たちはクロに包まれてぐっすりと眠っている。呼吸に合わせて動く毛並みがちゃんと生きていることを証明していて愛おしくなる。

「この前は急にこの子たち連れてきて、クロってやっぱり魔法使いみたいやな。」
 香菜は小さくつぶやいた。
 クロは魔法なんて使ってないだろうし、クロがどこで一生懸命子供を産んだのかを知らないだけだと分かっていた。でもつい、そんな風に思ってしまう。

 香菜はふと、ここに引っ越してくる前、隣の家に住んでいた同級生で仲良しのエリカちゃんのことを思い出していた。
 エリカちゃんはピアノが上手で、クラスメイトたちが群がる音楽室のグランドピアノで、みんながリクエストする曲を弾いてくれた。
 あの曲知ってる?弾ける?と頼むと少し考えて、こんな感じ?と少し探るだけで冒頭やサビの部分を弾いた。みんなが喜ぶのが嬉しいみたいにニコニコと楽譜も見ないで弾いてくれたのだった。
 好きな曲の旋律だけをリコーダーで再現するのがやっとのレベルのクラスメイトたちにも香菜にも、エリカちゃんの指がそれぞれ考えを持ち、鍵盤のどこをどう押さえれば、みんなが待っている音が鳴るのかをわかってるみたいに、勝手に動いて奏でるように思えた。香菜は、その指を操るエリカちゃんが魔法使いみたいに思えた。

 だけど、香菜にはエリカちゃんが魔法使いじゃない事はわかっている。

 隣の家から毎日毎日聞こえてくるピアノの音は、練習曲の同じフレーズを何度も繰り返した。曲全体をスラスラと弾けるようになっても、まだもっと練習していた。そうやって積み重ねた力があるから、頼まれた曲をさらっと弾くことができるんだということもわかっていた。

 ここに引っ越してきてから香菜は、小さい頃少し習ったピアノをもう一度習い直したいと両親にせがんで、近くのピアノ教室に通い始めたのだが、今の自分には、そのエリカちゃんが練習で繰り返していたフレーズさえも魔法でも使わない限りいつまで経っても弾けないように思えた。

 みんな、見えないところで頑張ってるんだ。クロだってひとりで産んで、ここまで育てて、見せにきてくれたんだ。
 クロのバトンを全部引き継ぐことなんてできないけれど、手伝いたい、一緒に幸せになりたいと、香菜は強く思った。
「クロ。ひとりで大変やったよね。ちゃんと暮らせるようにするからね。」

 香菜が話し出すと、クロは子猫たちを踏まないように注意して立ち上がった。そのまま腰をうんと高く上げて伸びをしてから、箱の淵にちょいと前足を掛け、ひょいと外に出てきた。

 「クロ、ごはんたべる?待ってて!」
そう言って立ち上がり、縁側の石の上でスニーカーを脱いで家の中に入った。キャットフードが入った缶を持って縁側にくると、クロの器にカラカラッと入れて、それを持ってまた庭に出た。

 段ボール箱のそばできちんと座っているクロの前に器をそっと置き、香菜は石に腰掛けた。今のところクロが家に入るのは子猫たちが中に居る時だけだった。

 カリカリと音を立てて食べ始めたクロを見ながら
「あのな、私の秘密教えてあげるわ。家とかママの前では大阪弁やけど、学校では東京弁やねん。「だってさぁ」とか喋ってるねんで。でもな、家では照れくさいからな。ママと合わせてるねん。」
にやっと笑い、話を続けた。

「学校でいじめられへんようにするには、目立ち過ぎないことやねん。転校してきただけで目立つから。そこの子たちがしゃべってる言葉をよく聞いて真似して喋って馴染むようにしてたら仲間にも入れてもらいやすいねん。友里もそれができたらなぁって思うわ。あの子、あんまり喋ってないみたいやけど、友達ができたかどうか、ちょっと心配。私でも国語の時間の音読は難しいし、うっかりイントネーションを間違えたら笑われるねん。学校は、いっぱい気を使うから大変や。でもクロの方がもっと大変やんな。」

 香菜が薄い色になった空を見上げてからもう一度クロを見ると、金色の目が何か言いたげに香菜をじっと見つめていた。そして、深いまばたきをしてまた食べ始めた。

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