みけこの散歩18(満開が終わりじゃないこと)
母の日の日曜日の少し前に届いたプレゼントの盆栽
初めて見る、旭山桜という木
まだ黄色い固そうな蕾をつけた小さな木は、少し艶のあるあの見慣れた幹で確かに桜だ。
手にとってくるりと眺める。
両手で包みこめるほどの鉢にしっかり根を張っているのを感じた。
根もとの苔は緑が瑞々しく、手のひらに乗るほどの小さな世界に、手入れされた日本の庭が再現されたようで、私はすっかり魅了されてしまった。
数日後、母の日に合わせるように、少し蕾を残しながらたくさんの花が開いた。
その残ったツボミの濃い色は、開花した花を飾るようで、まるでこのぐらいの咲きぐあいが今日にぴったりで、1番素敵なのだと思わせた。
その翌日からも朝に午後に夕に見るたびに、少しづつ、ひとつづつ、開花して行く花々
その1輪は、見上げるほどの大きな木が咲かせる花とそんなに変わらない大きさで、こんな力がここにあるのだと、そして時間ごとに変わる姿が、生きていることを証明しているのだと感心する。
動きは見えないけれど、ゆっくりと確実に成長している。
午前中に蕾はあと5つだと思っていたら夕方には残り3つにそして夜、気付けば残り1つを残して開花
そしてその翌朝、最後の一輪が開花するのを待っていたかのように、花びらが1枚、2枚と散り始めた。
待ち望んだ満開は、そこが絶頂で後は散っていくのだ。
もちろん花がいつかは散ってしまうことを忘れていたわけではない。
ここ数日に渡って、左から右から上から、こんなに小さな木なのに下からさえも写真を撮りまくり、取り憑かれたように眺めていたのは、この美しさをなんとか留め置きたいと、私の記憶だけでは物足りないから写真に残したいと…これが今だけだと分かっているからだった。
けれど、やっぱり花びらが落ちたときは、終わってしまうんだという寂しさが、わっと押し寄せて、このところの甘い夢の中から叩き起こされたような、そんな気持ちになった。
生きているものだから、ずっと同じではないから美しい、今しかないからその姿が愛おしい。
このまま残したいなどと思うのは、エゴでもちろん残せるものではない。
散り始めて寂しい気持ちを花を贈ってくれた娘に伝えると、
来年もまた元気いっぱいに生きられるように夏の姿に変るのだから、
お花が散ってしまうのは若干寂しいけど応援してあげて!と
よく見ると少し元気をなくした花びらのそばには、鮮やかなグリーンの葉が目立ち始めている。
花びらが散っても終わりなんかではなく生命は続いている。
終わりが近づき寂しいなどと、失礼なことを思ってしまった。
この小さな木は、これから大急ぎで若葉の季節に入り、夏を越えて秋には葉の色づきを見せてくれるだろう。
その後少し眠りにはいり、そしてまた私を虜にするほどに花を咲かせてくれるに違いない。
1週間ほど前に私のもとにやってきた小さいけど立派なこの桜の木が、私にこれから先も永く続く物語のプロローグをみせてくれたのだった。
この世に永遠などはなく、終わらないものなどないのだが、それでも少しづつ姿を変えつつも生きて、それが成長であるということが私に希みや喜びを与えてくれることだろう。
だから感謝をこめて大切に育てて行きたい。
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