桜屋敷を通る風/第15話
15.真夏の思い出
蝉は何の予告もなく「せーの!」で大合唱を始めた。
公園の樹木とほとんど繋がったようなこの庭にもたくさんの蝉の子どもたちが眠っていたに違いない。
そして、今年生まれた蝉たちは、来年またその次の年と、土の中で順番待ちの幼虫たちのたちにも聞かせるように音量マックスで歌っている。それは間違いなく今が真夏であることを証明していた。
香菜はツクツクボウシが「ツクツクボウシ!」と鳴いているか「ボウシ!ツクツク」なのか、ミンミン鳴く声から選り分けるように聞いていた。そうやって、長いのに短く感じる夏休みはうだうだと過ぎる。
クロは日中、公園の深い木立の中へ出かけて行くようで、雨の日以外は朝ごはんの後、夕方までほとんど姿は見せない。
公園の大きな木が作る影は、人が作ったブロック塀やコンクリートの陰にはない瑞々しい涼しさがあった。その足もとの土は脈々と木の根を流れる水分のおかげで乾いているのに冷たく柔らかい。時々聞こえる木の葉の擦れ合う音や鳥の羽音は、心地よい静けさでクロは、今までもほとんどの夏の日をここで過ごしていた。
プーはというと、クロと一緒に出かけていたのは梅雨明けから10日ほどで、暑さが勢いを増してからは居間のエアコンが効いた部屋でくつろいでいる。そして、西に傾いたお日様の力が尽きたころに、ごそごそと散歩に出かけるのだった。
プーの体の大きさは、もうクロとそんなに変わらない。その丸顔はクロより大きく見える。
のんびりとした性格とぽっちゃりとした見た目なのに、木登りが得意でクロが挨拶だけしかしない桜の木に易々と登り、降りるのも下向きに走りドドッと音を立てて着地する。
溢れ出す若い元気は、何にでも興味を持ち、その瞳に映るもの全てが面白く不思議でたまらないように見えた。
しかし、狩は苦手だった。クロが、まずはバッタなどの虫を相手に飛びかかる練習をさせたが、右の前足をひょいと上げて、お尻をゆらゆらと揺らして狙いを定めるところは、なかなか様になっているのに、その後ドタバタ走るので獲物は逃げてしまう。
かろうじてバッタは捕まえられたとしても、スズメやネズミなどはまだまだ難しいように見えた。
それにプーはクロのように自分では窓を開けない。誰かが開けてくれるまで鳴いて待っている。
そんな、のんきで気ままなプーを縁側から送り出す時には香菜も咲恵も「自動車に気をつけてね」と声をかける。
この辺りは車通りが少なく、クロの縄張りと公園では滅多に車を見かけることもない。でも、庭で見せるプーの無防備なダッシュや塀や木から何も確かめもせず駆け下りる姿を見ると、事故に合わないかと心配で、日が暮れて遊び疲れたプーが庭でニャーと鳴くと、「無事に帰って来た」とほっとするのだった。
夏休みが終わりに近づくと、香菜は宿題とやり残した遊びを消化するのに追われていた。
今年は、猫たちがいたので泊りがけの旅行には行かなかったが、日帰りでも十分あちこちに行けて楽しめた。
夏休みのたっぷりある時間を利用して作ろうと買った大きなジグソーパズルや、ビーズのセット。そしてそんな中の一つ、7月に買った花火のセットはとうとう夏休みの最終日まで残っていた。
これまでに花火をする時間はたっぷりあったが、大きな川沿いで見る打ち上げ花火と違い、手持ちの花火は、自分が日にちを決められるだけに自分で楽しい事を終わらせてしまうのが惜しくて持ち越していたのだった。
この花火が終わると夏休みも終わってしまうのに、何度も消える蝋燭に嫌気がさした友里が、花火で花火に火を付け始めた。次から次へと花火セットの袋から出して火をつけたので、花火の減る速度が早まり一気に終わりへと向かった。
名残惜しむ気持ちなんてないのかと、香菜は思ったのだが、楽しそうにしている友里をたしなめるのも可哀相なのでにこにこと笑っていた。
最後にすると決めていた線香花火は、後から食べようと取っておいたケーキの上のフルーツが、意外に素っ気なく口の中で消える時みたいに、あっけなく消えた。
それと一緒に暑くて楽しかった夏休みは終わってしまった。
学校に行くのが怖くなって、ズル休みすら考えた林間学校を何とか乗り越えた香菜は、夏休み中の登校日もプールの解放日も楽しそうに出かけた。夏休み明けの登校を明日に控えても何も臆することないようだった。
それなのに、2学期が始まって1週間ほど経って、先生から返してもらった夏休みの宿題を持ち帰ってきた日の香菜は暗い顔をしていた。
咲恵がどうしたのか聞いても、詳しくは語らずに
「べつに大したこととちゃうねんけど。何か…まあ、いいねん。」
と、ごまかしランドセルの中から、保護者宛ての手紙や夏休みのドリルなどを出した。
順に見せていると、作文の宿題を返されたものが出てきた。それには学校の先生しか持っていないピンク色のサインペンで大きな花まるがつけられていた。
それを見つけて手に取った咲恵は
「すごいやん。「たいへん上手に書けています。」やて!」
「あー、うん。それな、クロのこと書いてんけど。」
と香菜は全然嬉しくなさそうに答えたのだった。
「そうなん?あとでママも読んでもいい?ちょっと他のお手紙と一緒に置いといてな。」
「別にいいけど。」
元気なく答えてランドセルを自分の机に置きに行ってしまった。
それから香菜は、ピアノを練習し始めたのだが、少し弾いただけでピアノの蓋をしめてしまった。
ため息をついて庭に面した掃き出し窓を開けると、窓のすぐ下でクロが長々と寝そべっているのを見つけた。
陰になっているのにまだお風呂のお湯ぐらい温かいコンクリートは、涼しくはないがリラックスできるのかも知れなかった。
香菜は床に膝をついて、外のクロを覗き込むように
「クロ、話聞いてくれる気ある?」
と声をかけた。
クロはチラッと香菜を見た後、背中を反らし爪の先からしっぽの先までを全部きれいに伸ばしきってから一度きちんと座り、「どうしたの?」と聞き返すみたいに首をかしげてからゆっくりと立ち上がり、ひょいと身軽に部屋に上がった。
香菜はクロの瞳はいつ見てもきれいだ、ゴールドなのに金属じゃなくてガラス…いや宝石みたいだと思いながら、クロの頭を撫でて話しはじめた。
「夏休みの宿題の作文にクロのことを書いてん。そしたら、先生に褒められて、国語の時間にみんなの前で読まされてん。まさか、みんなの前で読まされるなんて思わないやん。それで休憩時間にちょっとからかわれて嫌やってん。」
香菜の手は無意識に、座っているクロの前足の爪と肉球のあたりの尖ったところと柔らかいところを探るように触っていた。悩んでいる時の香菜はいつもこんな風にクロの前足を握った。
「クロは読心術ができるとか、私の話を聞いて励ましてくれるとか書いたから、嘘つきみたいな、ちょっと変な子みたいな感じに見られて…。そんなつもりなかったのに。」
クロは黙って聞いていた。
「嬉しかったことでも、何か特別なことって秘密にして、みんなに言ったりしない方がいいな。きっと…。
先生だけが読んでくれたらよかったのにな。クロが読心術をできるみたいって書いた所に波線とちっちゃい花まるつけてくれてん。だから、それはすごく嬉しかってんけど。」
「香菜ちゃん、私のことを作文に書いてくれたのね。ありがとう。すごく嬉しい。」
「うん。だってな、クロと話せるようになってほんとに嬉しいねんもん。でも、みんなにまで言うつもりなかったのに。」
「きっとそのうちみんな忘れちゃうわよ。ほら、この間ママと運動会のこと話してたでしょ。夏休みの宿題のことなんてすぐに忘れちゃう!ねっ」
「そうか、そうやんな。みんな私の作文なんて今日で忘れるやろな。私も気にしないようにする!クロ、ありがと!」
そう言って、クロの前足を離し、今度は両手でクロの顔を包み込むとその鼻に香菜の鼻の頭でキスをした。
顔から手を離された後、クロはブルっと軽い身震いをしたが、その後ニコッと笑ったように見えた。
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