桜屋敷を通る風/第18話
18.次の春には
年が明けて冬休みが終わると、カレンダーがめくられる速度がどんどん上がる。小学生の香菜ですらそんな風に感じていた。
3学期の予定表には卒業式の練習が時間割に組み込まれていて、終わりが迫っていることが見える。「これが最後の」は6年生になってからたくさんあった。
こうやって、最後の何かを越えていくと、「初めて」が容赦なく降りかかる。時間は前にしか進まないのだから、ほんとは全部「初めて」なのかも知れなくて、そうすると全部が「これが最後」になるのか、などと考えた。
香菜は友里がとっくに眠っている部屋で、自分の勉強机の明かりだけをつけて日記を書いていた。付け始めてそろそろ1か月になる。
この日記帳はママからのクリスマスプレゼントだった。ここになら香菜がクロと話したことも、ちょっぴり秘密にしておきたい出来事のあれやこれやを書き綴っても大丈夫だからと選んでくれたのだった。
夏休みの作文のことで香菜が辛い思いをしたことをちゃんと気にかけていてくれたのが嬉しかった。
最低気温は今シーズン一番を何回か更新していた。今夜も強い寒波到来で水道管の凍結に注意するようにとか、そんな注意が天気予報から聞こえていた。今夜の雨は、夜中には雪に変わるかも知れないらしい。
暖房はしていても、足先が冷たくなってきた。香菜は日記を閉じて寝ることにした。
部屋から出てトイレに行こうとすると、遅い時間に会社から帰ってきたパパと、ママが台所のテーブルで話しているのが聞こえてきた。
「こんどまた人事異動や」
急に聞こえた「ジンジイドウ」の言葉にお帰りなさいを言いに行きそびれ、思わずそのまま立ち聞きをしてしまった。
「次、どこやのん?」とママ
「今度は和歌山。3月、また終業式が済んだらすぐ引っ越しになるな。卒業式の方が先やったな。俺はもう2月末で向こう行くからホテル住まいか、行ったり来たりになるなぁ。」
ああ、またか。驚きとか、もうそういう次元は通り越していて、春の引っ越しはお決まりで、2学期の途中じゃなくてよかったと、冷めた感情が湧いた。それは、慣れたからなどではなく、転校したくないとか、ここにいたいとか、そんな言い分が通るはずがない諦めの境地からだった。
そして、静かに自分の部屋に戻って、頭まですっぽり布団に潜り込んで諦めをつけるための理由を集めた。
裕子ちゃんは私立の中学校に合格したって言ってたし、運動会のあと急に仲良くなった理沙ちゃんも公立の中学には行かないらしい。
家が一番近い美穂ちゃんは、お姉さんが公立の中学だし、受験の話は聞かないから公立に行くはず。だとすると、仲良しでここの公立の中学に行く子はたった1人。
それに中学に上がったら、美穂ちゃんと同じクラスになるとは限らない。また、まっさらの友達関係から始めるなら、引っ越して全然違う所から、友達をつくり直しても同じことだと、自分に言い聞かせた。
でもでも…、クロとプーはどうなるんだろう?
これでお別れするなんて、絶対に嫌だったし、絶対に考えられなかった。
ずっといつまでも一緒に居たい。どこに引っ越したって連れて行きたい。
そう考えているのに、自然と涙が出てきてしまった。止まらない別れの予感が涙を止めてくれない。
「ねえ、クロ、3月になったらお引っ越しやて。クロとプーも絶対一緒に行こうね。」そう伝えればいいだけのはずが、香菜の心の半分では、クロやプーの気持ちとか生活を考えてみて!と言っている。
それにママたちがなんと言うかわからない。
今すぐにでもクロに話しに行きたいけど、もう夜も遅い。
そうしているうちに暖房を止めた部屋はだんだんと冷えてきて、反対に布団の温もりが増してきた。
涙は乾いたけど、あれこれ考えてしまう。これでは眠気なんて覚めてしまって今夜はきっと眠れないと、毛布を握りしめていたのだが、やがて柔らかい手触りは手の平を温め、迷いや心配を連れた心を夢の中へと誘い込んで行ったのだった。
明くる朝、目が覚めるとカーテンの隙間から見える窓の外がいつもより明るく感じた。
寝過ごしたかとびっくりしたが、壁の時計はまだ7時になっていない。カーテンを少し開けて覗くと、その2階の窓からは真っ白の雪に覆われた屋根が見えた。雪国の本格的な積雪ではないので、屋根瓦の青い色や赤い色が縁取るように見えていてカラフルで、晴れた日の雪景色は心をうきうきとさせた。
香菜は、パジャマの上からモコモコのカーディガンを羽織り、寝る前に並べておいた靴下を履きながら
「友里、起きて見てみ。雪積もってるよ!」
と、まだ眠っている妹に声をかけて、スリッパをパタパタ鳴らして階段を下りていくと、玄関ではちょうど父親が家を出るところだった。
「あ、パパおはよう。もう行くの?」
「雪が積もって足もと悪いし、電車が遅れてるかも知れんからな。」
靴ベラで革靴に足を突っ込みながらパパが答えた。
「そうなんや、大変やな。行ってらっしゃい。気を付けて!」
と、ママと一緒に見送ると、パパが開けた玄関ドアからさぁっと冷気が吹き込んできた。ドアの外にもうっすらと白く積もった雪が見えた。
玄関に居るついでにとママが
「今日は2人とも長靴で学校行くほうがいいやろ。出しとくね。」
「うん、ありがとう。」
そう言ってから、香菜は階段の上に向かって
「ゆーりー、起きやー!」
と大きな声をかけた。
縁側の奥の猫たちの寝床は小さなホットカーペットが箱の下に敷かれているおかげで、寒い夜中も底冷えはしなかった。それに2匹がくっついて寝るので寒さの心配ないが、部屋のストーブが点けられるとプーはいつもストーブの前に来る。
今朝も早くから朝の支度が始まっていたので、すでにプーは髭が焦げそうなくらいストーブに近いところに座っていた。
ガラス戸から見た庭は軒で雪が降らなかったところと、桜の木の根元に近いところ以外は真っ白になっていた。地面には5㎝ほど積もっているように見えるが、木の枝や物干し竿の上にも少しずつ細く上手に雪が乗っているので、空からまんべんなく雪が舞い降りてきたことが分かる。
「ママ、早く用意ができたら、学校行く前に雪だるま作っていい?」
と、早く用意をする宣言をした。いつもみたいにどの服がいいか迷ったり、寒いからといちいちストーブで洋服を温めたりしない。潔くパジャマを脱ぎテキパキと着替えた。台所のテーブルに行き、食パンの袋を手に取ると、
「へぇ、えらい、早いこと!」
とママが呆れたように笑った。
「うん。ママのパンも一緒に焼く?」
トースターに食パンをセットしながら香菜が聞くと
「友里のこと起こしてきてからにするからいいよ。」
と台所を出て2階に上がっていった。
点きっぱなしのテレビは、大きな駅の前で積雪を避けながら歩く人たちを映し、「列車のダイヤの乱れが出ていますので余裕を持ってお出かけください。」と言っていた。
「余裕を持って、早く食べよ。」
と、ひとりごとを言いながら、まだ薄い焼き色しか付いていない食パンをトースターから出した。熱くなりきっていないパンのせいでバターがなかなか融けなくて、食パンの表面ががたがたになったのもお構いなしだった。
昨日の夜に聞こえた話のことを忘れてなんかいなかったけど、雪が気になって仕方ない香菜は、後回しにすることに決めたのだった。
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