桜屋敷を通る風/第8話
8.飼い猫になるには
このところ随分と日が長くなり、まだまだ明るかったがもう4時半を回っていた。
あれから、香菜が子猫に名前をつけたいと言い出し、これからのことを考えるのは後回しになってしまった。
もともと猫好きの咲恵が香菜と一緒にはしゃいでしまったのだが、大人の咲恵としては、このまま全部の猫を飼い続けるのは無理だとわかっていた。
名前なんかつけたら情が移ってしまう。
子猫を持ち上げてもクロは怒らなかった。だが、クロ自身は手が届きそうで届かない距離までしか来なかった。
咲恵は、そろそろまたクロはお乳を飲ませるはずだから、先にエサをやった方がいいと考えた。
一旦子猫たちが入った箱を縁側の石の横に置いて、それを心配そうに見つめるクロに
「あんたのごはん作ってくるから、まっといてや!」
と声をかけて台所に行った。
香菜は子猫がかわいくてしかたがないので、クロの食事はすっかりママに任せて、ちょんちょんと触りながら箱の中の子猫を眺めていた。
咲恵が、白いご飯にしらす干しと刻んだキュウリを混ぜ込んだクロのごはんの器をコトリと石の上に置くと、まだ呼ばれもしなかったのにクロはすぐさま寄ってきてハフハフと食べた。
また、ちょっと前のクロに戻ってくれていた。
「パパは今日そんなに遅くならんと帰って来るやんね。」
確かめるように香菜は咲恵に聞いた。
「うん。6時には帰って来はるはず。」
香菜の父親は、平日の帰宅はいつもとても遅かったが、日曜の夕食はみんな揃って食べることがほとんどだ。サザエさんが始まる頃には食べ始め、エンディングの曲が流れると「ああ、日曜日がおわる…」と名残惜しい気持ちになる。
そして、「来週のサザエさんは」のセリフぐらいで、必ずパパがリモコンを持ちニュースに変えてしまう。
そのあとのダイニングテーブルは大人の時間。別にそのまま座っていても構わないのに暗黙のルールがあるかの如く「ごちそうさま」と子どもたちはテーブルを離れるのだった。
今夜の夕食のお手伝いは、いつもより緊張感があった。みんなのお箸をきちんと並べ、ビールグラスを置いた時に、「ジッ、ジー」と玄関の呼び鈴が鳴った。
「パパやっ!」
この家はかなり築年数が経っていて設備も古いままだったのでインターホンにカメラはついていない。
ただ、香菜の家では昔からこの「2回押し」が鳴るとパパが帰って来た合図だったのですぐに分かったのだった。
香菜は、どきどきしながら「おかえり」を言い、ゴルフバッグを靴箱の横に立てるのを手伝った。着替えが入ったボストンバッグを持ち上げようとすると、
「重いから、いい、いい。こっちのお土産の袋を持って行って。」
と、パパはにこやかで機嫌はまずまずだった。
咲恵は台所で夕食の仕上げをやっているので出てこない。
「ただいま」と奥に入って行くパパの後ろから歩いた。
子猫が入っている箱はまだ外の石の横に置いたままだったが、夕食後にパパを説得して、中に入れようと香菜たちは決めていた。
クロが家の中に入るかが心配だったが、もうそれはその時に考えることになっていた。
ニュースの時間までには結果を出したい香菜は、意を決して夕食の序盤から挑むことにした。残念だが、今日のサザエさんは諦めた。
「あのな、猫飼っていい?」
「いつもエサやってる黒猫か?」
今更何を?とでも言いたげな表情で返された。「これはイケるんじゃないか」と期待満々で
「うん。あの子、お家の中にいれて飼ってもいい?」
「ダメ。」
ばっさりと一蹴された。もはや終わりか。だけどこのまま諦めるわけにはいかない。
「かわいそうな子猫がいてるねん」
と同情作戦に出た。
しかし、もっと険しい顔で、
「ダメなものは、ダメ。うちでは動物は飼いません。またいつ転勤になるか分かれへんし、前からダメっていうてるやろ。」
パパの言葉は仕事で標準語の人たちとずっと会話をしてるせいで、大阪弁と入り混じり、イントネーションはいつもどっちつかずでなんだか変だ。
長期戦になるのか?しかし怒らせてはいけない。今までパパに叱られて口答えをして勝った試しは一度もない。香菜は少し焦った。
「一生のお願い!絶対、ちゃんとするから」
頼みごとをする時の渾身の一言。その割には、何をちゃんとするのか具体的ではない。
「うーん。いいから早くご飯食べなさい。」
と、話をそらされた。
それにしても、ママはさっきから何も言わない。パパのグラスにビールを注ぎ足し、ついでに自分にもちょいと足したり、もう1本冷蔵庫から出したりと、さも香菜が困ったことを言い出して、「私も困ってる」風な態度をしている。協力してくれるはずなのにと、内心焦り始めた。
そこで香菜は、助けを求めてママを見た。ところが何か一言でも加勢してくれるどころか、渋い顔で小さく首を振った。
裏切ったな!と怒りがこみ上げてくるが、今日の香菜は冷静だった。
いつもは、ここで爆発してしまい、香菜が爆発して怒ったことに対しても𠮟られる。最後は「パパもママも嫌いっ!」と泣いて、自分で終わりにしてしまうものだから、結局なにも変わらず親の言うことを聞くことになった。
その後たいていママは物知り顔で「あほやなぁ、もっと素直にハイハイ言うて、あとからしれっとやりたいようにするねんやん。」などと言ってきた。こういう時、ママの腹黒さが垣間見え、余計に悔しい思いをするのだった。
だから今日は「はい」と、おとなしくご飯を食べ終え、とりあえず「ごちそうさま」をして、一旦テーブルを離れた。
次のねらい目は、ニュースが終わる頃だ。クロたちがどうしているか外の様子が気になってしょうがないが、見に行ったりすると叱られるかもしれない。何をするでもなし居間の低いテーブルで時間を潰していた。
テレビが「明日からの週間天気予報」を伝え始めた。
チャレンジを再開しようと立ち上がりかけた時に、ごく自然にママが立ち上がって縁側まで行き、ガラス戸に手をかけながら、
「パパ、この子らやねん、ちょっと見たってくれる?」
と相談を持ち掛けるかのように誘った。
香菜も心配でしかたがなかったので急いで駆け寄った。ガラス戸を開けた縁側から箱を覗くと、ちゃんと白黒の毛皮のかたまりが規則的に動いていて呼吸しているのが分かった。
そしてママはパパを説き伏せるために、このまま放っておいてあちこちでうろうろしたら近所迷惑になるなどと、外堀を埋める方式で淡々と説明した。
この子猫たちのもらい手を急いで探すから、それまでは家に入れておいた方がいいと、ほぼ決定事項として言い切った。
パパはずっと黙って箱の中を見下ろしていたが、
「部屋の中には入れるなよ」
と渋々だが許してくれた。
「嫌なことでも、終わりが分かってると耐えられる。」って誰かが言っていたのを香菜は思い出した。
ずっとじゃないということで、パパは許してくれた。「さすがはママだ。」と、ほっとしたのと同時に、ずっとじゃなくて終わりがあるんだ。そこはそんなに遠い未来じゃないと気付くと、あっという間に気持ちは沈み始めた。
楽しいことも幸せも期限付きで、出会いがあればいつかきっと別れが来る。だから、別れまでを大切にしなくちゃいけない。
香菜はまだ小学6年生だったけど、それを身に染みて分かっていた。
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