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桜屋敷を通る風/第11話

11.重い雨雲の行方

 雨の季節に入ったと発表された通り、すっきりとしない天気が続いていた。
 今日も朝のうちは雲っているだけだったが、どんよりとした雲はこらえきれずに雨を落としてきた。
 今日は土曜日。
「雨の日に学校もどこにも行かなくていいのってなんか得した気分。」
 香菜は外の雨を窓越しに眺めてそう言った。
 屋根に落ちた雨粒が集まって、横に並んでトントンと並んで瓦を降りていく。小さな薄っぺらい波は、雨樋に吸い込まれその先は見えない。

 ピアノが置かれているフローリングの部屋は縁側と直角に交わり、部屋の掃き出し窓は庭に面していた。縁側の様に沓脱石がない分、高さがあっては出入りしにくいが、今日は子猫たちをこの部屋で遊ばせて、そこからクロを部屋に呼び入れてみることにしていた。
 しかし、雨を避けて軒下で座るクロは、子猫たちを箱ごと部屋に連れてきて、明け放した窓から呼んでも知らん顔で、まるで「子守を頼みます」と言わんばかりだった。

 家の中に通じる部屋のドアを締めて、子猫たちを部屋に放すとトコトコと前よりずっと早く歩き回った。紐を目の前で動かすと小さな前足で押さえにくるし、追いかけっこを始めて、じゃれあって転がる。
 その姿はずっと見ていても飽きることなんてなく、只々可愛らしくて、そのうちの1匹だけを選べと言われても無理な話だ。

 子猫を家に入れた時の最初の約束をそろそろ果たさなくてはいけなかった。
 このまま、子猫たちみんなを飼い続けることはできない。けれど、子どもが突然、全員居なくなってはクロも寂しいだろうから、どの子か1匹だけ選んで、あとの子猫たちを誰かに貰ってもらおうと、一昨日ママが申し訳なさそうに言ったのだった。

 香菜も子猫が家で眠るようになってから、何度か猫の話を友達にしたが、まだ狭い交友関係もあって興味のありそうな友達はいなかった。それどころか、子猫の可愛さにどっぷりと浸かってしまった今、誰かに引き取って貰うという選択肢は香菜には考えられなかった。

 咲恵が急に追い詰められたように悲壮感を漂わせ始めたのにはわけがあった。
 子猫たちは歩くのが上手になり、行動範囲が広くなっていたので、日中、庭の中だけでは飽き足らず、玄関の方の垣根から家の表側の道にちょろちょろと出て行くことがあったらしい。
 クロは子どもたちの姿が見えないと大きな独特の声で離れた子どもたちを呼び寄せる。そんな微笑ましい日常だったのだが…。

 そこを隣の家の田口さんに見られてしまったようで、一昨日、咲恵がゴミ出しで田口さんの奥さんに会った時、猫の話になったという。
「野良猫が増えたら大変なことになるわよ。黒猫が子猫を連れてるでしょ。あの黒猫、とんでもないのよ。保健所に通報した方がいいわ。」
と、他の住民とも話が出ているとも言っていた。
 ご近所から苦情が出ては、いつまでもこのままというわけにはいかないのだった。


 半年よりもっと前のことになるが、クロは二度田口さんのお家にお邪魔していた。一度目は台所の小窓から忍び込んで焼き魚を頂いた。まさに漫画に出てきそうなくらい、ベタな泥棒猫を演じ、窓から逃げ出すところを見つかっていた。

 その時のことをこうトラに話していた。

「お腹が空いててね、それで、窓からのいい匂いに誘われてこっそり入って、お魚を一つ貰って出るときに見つかったの。ものすごい剣幕で怒鳴られて、私が窓から路地に降りたとき、上から水をかけられてびっくりしたわよ。それでね、その何日か後に、今度は玄関が開けっ放しになってた時にそっと忍び込んだら、靴箱の上に金魚の水槽があったの。くるくる泳ぎまわっている金魚に夢中になっちゃって、水槽の蓋に乗ってちょこちょこっと手を水に入れたりしてね、そうしたら、おばさんが中に戻ってきて鉢合わせしたのよ。「こら泥棒猫!また金魚捕ったね!」って。
 私は、おばさんと入れ違いにすり抜けて外に飛び出たんだけど、金魚なんて捕ってないの。」

 平日の日中、香菜たちが学校に行っている間は、庭でのクロや子猫たちの様子を見守るのは咲恵の役目で、実際には一番長い時間触れ合っていた。
 洗濯物を干した後や掃除が終わって一息ついた時、猫たちとのひと時が癒しの時間で、話し相手だった。
「ブラッシングしたろ!」
とクロが寝そべっている背中にブラシをかけ、迷惑そうにクロが立ち上がってしまうと、
「せっかくやのに」
と今度は子猫にブラシをかけようとするが、子猫はブラシが遊び相手にみえるのか、ブラシにじゃれつき、前足で抱えながらキックをして離さず、結局ブラシを取られてしまう。
「こら、こらっ」とは言っているが、無意識に笑っていた。そんな時は何もかも忘れていられて本当に楽しくて、ずっと全部の猫たちと暮らす日々が続くことを望んでいた。
終わりがあることを自分が予告したのに、それは意地悪な誰かがしたことでしかなかった。

 ご近所からの苦情。いずれこんな日が来るのは想定内だし、こんな住宅街で野良猫にエサをやるだけの行為は、言わば迷惑行為だと咲恵も分かっている。何とかしないといけないと、それもずっと頭の片隅にあった。
 可愛いからとか可哀そうだから、だけでは理由にならない。かといって5匹全部を家の中で飼い続けることには無理があった。
 自分達はこの土地にあとどれぐらい住むことになるのか先が読めない転勤族だ。もしかしたら来年には、ここに住んでいない可能性もある。そんな生活に猫たちを巻き込んでいくことがクロにとっての幸せになるはずがない。

 咲恵は最近、この堂々巡りの思考の中で「出会わなければよかった、関わらなければそれで済んだ」という決着になる自分が嫌いだった。

 そして、子猫たちの貰い手を見つけることの手立ては、ほぼなかった。
時々顔を合わせる近所の人とは挨拶はするけれど、「子猫を貰ってくれないか?」と切り出す勇気はない。何年ここに住むか期間は読めないけれど、当たり障りなくこの土地で過ごさなければいけない。
 香菜も友達に話はしているようだけど、子猫を飼ってもいいと言ってくれる友達はいないみたいだ。香菜にしても自分同様、猫を頼むほどの友達はまだそう多くはないだろう。

 近いうちに、自分が決断と執行をするしかなかった。

 咲恵が、香菜たちが子猫たちを遊ばせている部屋に入って見ると、案の定クロは庭の軒下で毛繕いをしていた。
「クロは入って来やれへんか?この頃、撫でても嫌がれへんし、あとでここにクロのごはん持ってきたら入りやるのとちゃう?」

 そう言って座って、咲恵のお気に入りのゴロちゃんを手に乗せて撫でまわしながら
「どの子が一番好き?」
と、努めて明るく、ドーナツでも選ぶみたいに聞いた。
「ヒゲちゃん!」
と、友里が嬉しそうに答えた。
 一昨日の話の続きであることが分かっている香菜は、不服そうに黙っていたが、
「プーちゃん。」
と仕方なさそうに答えた。
「その子だけがオスやったなぁ。」
「オスとメスで、どっちが貰ってもらいやすい?」
と心配そうに香菜が聞くと
「そんなことより、一番好きな子を残す方がいいやん。クロに聞くわけにいかへんし。」

 そう言って、もう一度軒先に目をやるとクロはどこかに出かけたようで居なくなっていた。


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