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桜屋敷を通る風/第20話

20.香菜の日記

その夜、香菜はいつもより長い日記を書いた。
『今日、クロとたくさん話ができました。引越しの事だけではなくて、今までにあったいろいろな思い出を話しました。
 これまでにクロと話したことで、いろんなことが解決できてきました。
でもクロがたくさんのことを教えてくれたというよりは、考えるヒントみたいなのを出してくれた気がします。 だから「クロってすごい、やっぱり魔法使いみたいだ」とクロに言うと、クロは「魔法なんて全然使えないし、自分も困ったりすごく悩んだりした時には、トラちゃんに話すと解決する」と言いました。
 それから、そのトラちゃんはトラちゃんのお母さんとたくさんのお話をしているそうです。
 みんなが誰かに話を聞いてもらっていて、ぐるぐる繋がっていくみたいだと思いました。
 クロは、「本当のところ問題は解決なんてしていないのかも知れないけど、話していると自分の中からだんだんといろんな考えが浮かんできて、その後にとても楽な気分になる」と言いました。
 私もそうです。楽な気分を作れたら、いいアイデアが浮かびます。
 ということは、結局は自分で考えているんだと思いました。
 でもそのきっかけになる話し相手が必要な気がします。
「今はクロがいるけど、もう会えなくなるので困ると」言うと、クロは、「きっとまた誰か新しい相談相手ができるし、それまでは香菜ちゃんのママとたくさん話すのがいい」と言ってくれました。
ママと話すとすぐにケンカになってしまうけど、クロは、「ケンカもいいものよ。」と笑いました。
 ケンカをすると余計に心がモヤモヤして今度はそのケンカが悩みになって、困りごとが増えるだけだと私は思いますが、「それでも意外とそれで自分の心が決まってスッキリすることもある」とクロは言いました。
 クロは、「本当の正解は誰にもわからないから、誰かが決めちゃいけない。でも、そんな大きな話になると、とっても難しいことになってしまうから、それは少し端っこに置いといて。」と言った後に、「迷ったら、その時に考えた自分にとっていい方向を選んで進めばいい。
でも、もし途中で違うことに気が付いたらそこでやり直してもいい。
少しずつ丁寧に道を選んでいくとそれは、とってもたくさん考えて選んだ道だから、きっと自分にとっては良い方を選んでいて、それはきっと幸せを感じることができる道だと思う。」
と、とてもゆっくり言葉を選びながら話してくれました。
 それからクロは、「心がゆらぐのは良いことだ」とも言いました。
ゆらぐとその分、心があちこちに振られて、あちこちに触れるから、転がした雪玉が大きくなるみたいに心も大きくなるそうです。
この前、雪だるまを作ったのでその感じはよくわかりました。

 私たちがクロを残してひとりぼっちにさせてしまうのが、かわいそうでとても心配なのですが、クロは、「ずっと覚えてくれていたらひとりぼっちじゃない」と言いました。
だから、私はクロのことを絶対に絶対にずっと忘れません。それから、少しの間だったけど一緒に遊んだクロの3匹の子供たちのことも忘れません。
クロも「私たちのことをずっと覚えているし、忘れることなんてできない」と言ってくれました。
プーのこともちゃんと約束しました。もしまた次に、どこかに引っ越してもプーはずっと一緒です。
 クロとの話の最後の方で、「クロがずっと幸せですようにって、いつも神様にお祈りするね」と言うと、クロは嬉しそうに「ありがとう」と言ってその後に、「でもね、神様を信じないわけじゃないけど、どんなことでも自分が招いた結果なのよ。感謝の気持ちは忘れてはいけないし、誰かのおかげなんだけど、誰かのせいじゃないの。それをちょっとだけ心の片隅に用意しておくと、辛い時に乗り越える足がかりになるかもね。」と言いました。
 私はいつも神様にお願いしてばかりいるので、クロって強いなと思いました。』

 香菜が書き終えて鉛筆を置くと、部屋の掛け時計が時間を刻む音だけが聞こえてきた。


[エピローグ]

「クロちゃんはそれで、納得できたのよね。」
「うん、前にトラちゃんが教えてくれた、抗ってもどうしようもないことを乗り越えるには、上手に諦めること。っていうのを出来たと思う。」

 トラの家の色とりどりのパンジーが植えられたプランターのそばに2匹は温かくやわらかな日差しに包まれて座っている。
 さっきは、少し怖い思いをして桜屋敷を飛び出してきたクロだが、トラに心配させたくないし、自分の気持ちに決着をつけたかったので、努めて明るく振舞った。

「プーもね、もう少ししたら1歳になるでしょ。独り立ちの時だし、だけどあの子が今から自分で食べ物を探せるようになるのは難しいからね。それに、香菜ちゃんによく懐いているし、プーまで居なくなると香菜ちゃんが寂しいじゃない。」

「でも、クロちゃんもプーちゃんと離れるのは寂しいでしょ。辛いわよね。」

「うんそうね、いつまでも一緒には居られないと分かってても、もう二度と会えない遠いところに行ってしまうと思うと寂しいけど…。」

「あら、新幹線に乗れば行けるじゃない。生きてさえいれば二度と会えないなんてことはないわよ。」
トラがいたずらっぽく笑った。

「でもプーちゃんと最後まで一緒にいなくていいの?それから香菜ちゃんたちのお見送りも…。」

「朝からプーとはたっぷり話したわ。あの子、ちゃんと分かってるのかしら?って心配もあるんだけど…、車に乗る練習をした時に楽しかったんだって。だから、今日もいっぱい車に乗れるんだって楽しみにしてるのよ。それぐらい気楽なのがいいのかしらね。香菜ちゃんのママとは、昨日の夜遅くまで話したし、香菜ちゃんともたくさん話した。だから今朝は軽くね。お互い泣いちゃいそうだから。」

 クロは、ふっと、何かを振り切るようにそっぽを向いた。

「でも、午後には桜屋敷に様子を見に行くわ。少し離れて見送ろうと思うの。」

「うん、ちゃんと見届けていらっしゃい。それでね、日が暮れるころには、ここに戻ってきてね。きっとよ。」


 荷物が運び出された家の中では声が大きく響いた。縁側からは何度もクロを呼ぶ声がしていたが、クロは物置小屋の屋根から降りようとはせず姿を見せなかった。

 やがて、ゴトゴトと雨戸が閉じられ、ガラス戸が閉まる音がした。
玄関の前に横付けされていた車のドアがバタバタ閉まる音がして車が出ていくと、もう誰の声も何も聞こえなくなった。

 今朝早くからの喧騒は、台風の通過のように雑然としていた。いつまで続くのか、どこに居ればいいのか不安にさせる強風のように、何人かの知らない人たちが遠慮なく家に入ってきた。物を運びだす足音は、突然クロに襲いかかってきた恐怖で、そこから逃れようとトラの家に行ったのだった。

 トラの前では強がっていたがこうして桜屋敷に戻ってみると、嵐が過ぎ去ったこの場所は安堵をもたらさなかった。
 それどころか、何もかもが持ち去られ、居なくなってしまった人の姿や声や匂いがまだどこかに残ってはいないかと探したくなる、そんな空虚な心細さをクロに覆いかぶせてきた。

 静寂が戻った庭を見渡すと、この一年の出来事は幻のようだった。あの春の日、初めてこの庭で逢った時からのことを次々と脳裏に蘇らせた。子どもたちと大雨の日もゆっくり眠れた寝床。ストーブの温かさが体をほぐしてくれたこと。その全部は、もしかしたらあの石の上での長い昼寝の間に見た夢の中でのことかもしれないとも思えた。

 ただひとつ、石の上に取り残された色褪せたサンダルが、本当の出来事だったことを物語っているようだった。

 クロはそれからも暫く物置小屋の屋根でじっとしていたが、再び固く閉ざされた雨戸は音を立てることもなく、開けられたことは一度もなかったかのように閉まっていた。

 屋根からゆっくりと庭に降りたクロは、日向ぼっこの石に上がると、貴婦人のようにしゃんと顔を上げて座った。

 桜は満開まであと少しのつぼみを残すだけになっていた、ひっそりと立つその木に目をやると、雀がついばんだ花がくるくる回りながら落ちていく。
 クロは、雀のさえずりと羽ばたきが、静まり返った庭をすこしにぎやかにしてくれるのをしばらく眺めていた。

 もうすでに傾き始めたお日様だったが、それでもまだしばらくはここを温めてくれそうだった。クロは前足を折り曲げて低く座り、少しサンダルにもたれかかって、思い出を探すように目を閉じた。

 暖かさをまとい始めた緩やかな春の風がクロをやさしくなでるように吹いていった。

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