桜屋敷を通る風/第12話
12.雨雲の切れ間に
その翌週、空は昨日までの汚れを全部洗い流し、さっぱりと晴れ、お日様の光をそのまま届けていた。
クロは朝の食事もそこそこに、いつもより念入りに子どもたちの毛繕いを済ませ、何かに駆り出されるようにトラの家向かった。
トラに会いたくなったというより、今日は自分が桜屋敷を留守にしなければいけない。そうするしかない。その方が香菜ちゃんのママに余計な気遣いをさせず、予定通りに事が進むと思ったからだった。
昨日の夜遅く、香菜ちゃんのママがクロたちの寝床の横に来て、ずっと子供たちを愛おし気に撫でていた。
そして、クロの首の後ろから包み込むように両手のひらを当て、
「クロ、明日で子どもらとお別れになるねん。ごめんね。プーちゃんだけになるねん。ごめんね」
とポロポロ涙をこぼして、鼻をすすって、ただ何度も「ごめんね」ばかりを繰り返していた。
涙でぐしゃぐしゃの顔を拭くために、畳んであった洗濯物の中からタオルを引っ張り出してきては、また箱の横に座って子猫をさすり、クロをさすりと、それを繰り返していた。
その手のひらからも悲しみが溢れていた。抗いようのないものに屈して、自分が望まない行動をしなければいけないこと。最終的に一番弱いものへと矛先が向けられるのにそれを止められないこと。歯痒さと無念さはあっても結局は自分も悪の手先であり、いくら謝ろうが何も解決しないこと。
どうしようもないからと最悪の結末を選択する身勝手さを泣いて詫びる。涙を流し続ける自分のあざとさが嫌いだと、クロの背中に伝わった。
結局、寝室には行かずやっと明け方泣き止み、居間との間の障子を明け放したまま、大きなクッションにもたれかかるように少し眠っていた。
少しでも子猫たちと一緒に居たいと、まるで残り時間にしがみつくみたいだった。
そうやって朝を迎え、クロは香菜ちゃんのママから受け取ったこの不穏な感じを自分がどう判断するのがいいのか迷った。子どもたち全員を連れて桜屋敷から出て行くことを選んだとしても、まだ小さすぎる子どもたちはカラスなどの他の動物に狙われたらひとたまりもない。
香菜ちゃんのママの言う「3匹だけを連れていく」ことが実際最終的にどうなることなのか分からないが、もうそれに委ねようと決めたのだった。
桜屋敷を出て足早にトラの家を目指したクロだったが、門をくぐり抜けて、窓辺で寝そべるトラの姿を見た途端、胸の奥に詰まったものが溢れ出てきた。何か一言でも声を出せば泣き崩れてしまいそうで、声をかけもせずじっと座りこんでしまった。
気配に振り向いたトラは、明るい日差しの中では金色のはずのクロの瞳が、紺色の深い海みたいに潤んでいるのを見て驚き、急いで外に出てきた。
「どうしたの?中に入る?お庭がいい?それともクロちゃんの桜屋敷にいきましょうか?」
「ここでいい。今朝は子どもたち、まだ家の中にいるの。」
「うん。わかった。じゃこっちの奥で座りましょ。」
とクロを窓のひさしで影になっている所に誘い、トラはクロにぴったりと身を寄せて座った。
「今日で子どもたち3匹とお別れなの。プーだけが残ることになったの。」
トラは黙ってクロの話を聞いている。
「昨日の夜に香菜ちゃんのママから「ごめんなさい」って言われてね、とても長い時間、私と子どもたちと一緒にいたの。香菜ちゃんのママはいろいろ悩んだ末に私とプーだけを飼ってくれることにしたようなの。それで夜明けまでずっと気持ちを伝えてくれたの、私も辛かったし、とても迷ったのだけど…、今、子どもたちを置いてここに来ちゃったの。すごく苦しそうで辛そうで…、私が子どもたちと出て行く方が香菜ちゃんのママを苦しめずに済むのかも知れないとも思ったんだけど、結局置いてきちゃった。」
「そう…。」
「ああ、やっぱり朝早くに外に出してって頼んで、子どもたちみんなを連れ出すべきだったかしら。私、間違ったかも知れない。どうしよう!」
「ううん。待ってクロちゃん。クロちゃんも昨日の夜に香菜ちゃんのママから話を聞いて一緒に悩んで、こうすることを選んだのよね。
たくさん考えたと思うわ。それにクロちゃんは、この前の雨の日に、どの子か一匹だけ選ぶ話が聞こえてきた時にも、ここに来て私と話したじゃない。迷いは止まらないし、どれを選んだところで、必ず後悔はついてくるものよ。私は、クロちゃんが選んだ道を応援する。だって、この先のことなんて誰にも分らないものなのよ。信じましょうよ。これでよかったって!」
トラにしては珍しく、クロの頬に自分の頬をしっかり寄せた。そして、やってみたかったあのアメリカ映画に出てくるハグをとても自然にクロにしたのだった。トラはクロの甘い香りを嗅ぎながら寄り添った。しばらくしてゆっくり離れると、クロの横に並んで梅雨の晴れ間の透き通った空を眺めた。
「つらい選択をした時には、お互いが気持ちをしっかり分かり合えることで、その痛みや苦しみが分けられて少し楽になるわ。憶測や誤解は余計に相手を傷つけたり、自分も苦しみが増えたりする。だからね、難しいことだけど言葉にするのが一番なの。」
そうトラは言って、「言葉にする」やり方を教えてくれた。
ちょうどそのころ、高くまで登ってきたお日様の青い光をまともに受けながら、咲恵は一人、小さな箱を自転車の荷台に括り付けて家を出て行った。
見あげた空に浮かぶ雲は、洗いたての綿が真っ白になって干されているようで、気持ちがいいとしか表現できないような明るい空だった。
しかしその明るさは咲恵の心とはあまりにも真逆だった。その光が暗い心を照らすどころか、強い光が作る影がいっそう黒く見えるように、返って咲恵の気持ちに深い暗さをもたらした。
田口さんが教えてくれたその施設は、そう遠くはなかったが、急ぐ気にはなれず、さりとてグズグズとしていても結局は何も変わらない。自分の力では変えられない。
どうして自分がそこに向けて自転車を漕いでいるのか、行きたくないのになぜ進んでいるのか分からなかった。
まぶしい日差しを避けるための濃いサングラスは、泣きはらした目を隠すのに役立ったが、赤くなった鼻は隠せなかった。
そうして辛い役目を負い、家に戻ってきた時の自転車の荷台には何も乗っていなかった。
香菜たちが帰ってくるまでには、笑顔を取り戻さなければいけない。
食べ損ねた昼食の代わりにホットケーキでも焼いておこう。子供たちはきっと喜んでくれるだろう。
こんなに悲しいのに、おなかが空いてホットケーキが浮かぶなんて、自分が不謹慎で冷たい人間になったような気がした。でも、それでいいと思い直した。
3匹は貰われていったと説明するのだから。
クロが桜屋敷に戻ったのは、もうとっくにお昼を過ぎていて、縁側でプーを膝に抱いて香菜ちゃんのママが座っていた。
その瞳には涙はなかったけれど、クロに向けられたまばたきの多い笑顔には、まだ後悔と謝罪が入り混じっていた。
クロが、おもむろに縁側に上がり、香菜ちゃんのママの腕に頭を何度もこすりつけて甘えるような仕草をすると、少し驚いたように
「クロちゃん、いいのん?私に甘えてくれるのん?ありがとう。ごめんね。」
と、言って、クロのあごの下や耳の後ろを優しくなでた。
そしてクロは、香菜ちゃんのママの膝に片方の前足を乗せて向き合い、トラがさっき教えてくれた方法を試してみた。
お互いが触れ合っている時にしっかり目を見て、心が通じると信じて気持ちを伝えること。
「もう泣かないで。私は大丈夫。」
「えっ?クロ今、喋った?」
「これからも私とプーをよろしくお願いします。」
「クロの声聞こえたわ…、いいのん?ありがとう。わかった。ありがとうな。」
そう言ってまた、タオルを顔に当てて鼻をすすり始めてしまった。
咲恵は香菜たちが家に帰って来たあと、子猫3匹が急に居なくなったことの弁解をできるだけ明るくしたのだった。
「3匹とも欲しいて言いはってな、香菜たちが帰ってきてからにしてくださいて頼んでんけど、急いでるからって。でもな、目の前で別れるのんは、お嬢さんたちに返って辛い思いをさせますよて…、それもそうやな、って思ってしまってん。ほんでな、ママ一人で泣いてお別れしてん。ほんとにごめんなぁ。困ったわ、なんぼでも涙でてくる。」
いつもの倍くらいのスピードで喋り切り、無理がある笑顔を作った。
香菜は、最初こそ怒ったがあまりにママがポロポロ泣いて、涙と悲しいと寂しい気持ちを全部ママに持って行かれた気分になったようで、
「もういい。」
とプーを抱き上げた。
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