桜屋敷を通る風/第14話
14.相談相手のクロ
夏風邪だと判ったのがよかったのか、香菜は翌日には平熱になり食欲も出てきた。ただ、もともと食が細く好き嫌いが多かったので小柄だった体はより脆弱に見えた。頬がげっそりとこけ、大きな目は落ちくぼんでしまった。
長い髪が以前より重く顔に纏わりついて暗い印象になり、香菜は鏡の中の自分となるべく目を合わさないようにした。
少し動くとすぐ横になりたくなっていた体は、日曜日には普通に生活できるようになった。
朝食は、大好きなこんがりと焼けたトーストにバターをたっぷり染み込ませてかぶりついた。お粥は普通のご飯に戻った。夕食のハンバーグと添えられた野菜もぺろりと平らげた。
けれど、「もう大丈夫、明日から学校に行けるね」という話題になったとたん、香菜は大きな団子を丸飲みにでもしたみたいな苦しさを覚えた。学校の友達に会うのが怖いと感じてしまったのだった。
突然、口数が減り見るからに元気がなくなった香菜を見て、
「まだ、脂っこいのは早かったんやわ。お薬飲んでちょっとじっとしとき。」
と心配そうに咲恵は言った。
翌朝、香菜はもう熱もないのに布団から起き上がれなかった。起き上がれないのか、起き上がらないのか自分でもよくわからない。
夏用の薄い掛布団さえ押しのける力が入らず、そのまま横になっている。そんな感じだった。
朝の時間というのは、恐ろしく速いスピードで進む。
だから少しでもぐずぐずしてしまうと、あっという間にタイムアウトになる。何度かベッドの横に様子を見に来たママがとうとう諦めて、友里の通学準備を確認して玄関で送り出した気配がした後の家の中は、しんと静かになってしまった。
香菜は明るい部屋の中を見回し、壁の時計を見て、起きなかった後悔に襲われた。遅刻して行ったら余計に目立つか?2時間目と3時間目の間の長い休憩時間に教室に紛れ込むのはどうか?と、ぼんやり考えていたが、やはり病み上がりのせいかあっという間にもう一度眠りに落ちてしまった。
目が覚めてだんだんと焦点が合った時計の針は11時を少し回っていた。朝、あんなに重く感じた掛布団は簡単にはぎ取ることができた。
体も普通に起こせたので布団の上に座って、今朝の記憶をたどるような面持ちでいた所に部屋のドアが開き、ママが顔を覗かせた。
「香菜、起きたん?どう、しんどい?ママな、ちょっと買い物に行ってくるわ。今から出たら、お昼ご飯が遅なってしまうけど、お腹すいたら何か食べといて。バナナあるよ。」
と、少しほっとしたように香菜に告げてドアを閉めた。
香菜もなぜかママが出かけたことにほっとして、寝すぎた体をほぐしながらベッドから降りて子ども部屋を出た。ピアノが置いてある部屋の2階が子ども部屋だった。
階段を下りると、縁側のガラス戸は閉められていて、ただの静かな廊下になっていた。一番奥のクロたちの寝床の箱も猫トイレも今はただそこに置かれた無機質な荷物のようで、突然、心配がよぎり箱を覗くと敷いてあった古いバスタオルがない。
ドキッとして慌てて縁側のガラス戸を開けると、猫用バスタオルは物干しに干されて太陽に白く照らされていた。
「なんや、いい天気やから洗ったんか。」
ぼそっと独りごとを言って庭を見渡すと、桜の木は春の花の時よりもひとまわり大きくなって葉を茂らせていた。塀の近くの細い影の中ではクロとプーは座って夏草を食べている。
香菜が縁側にぺたんと座ると、香菜の姿に気付いたクロがゆっくりと向かってきて、トンッと縁側に上がり香菜の横に腰をおろした。
「クロ、お腹すいたん?」
と立ち上がりかけた香菜の足先にクロが顔を摺り寄せてきた。
「えーっ、撫でてほしいのん?」
思わず笑みがこぼれ、クロの頭から背中に向かって撫でる。その手触りは濡れてはいないのにしっとりとしていた。柔らかくやさしい体温に気持ちが穏やかになる。顎を触るとゴロゴロとのどを鳴らした。
黒一色の顔に似合う金色の目は、よく見るとまつ毛が長い。ガラス玉のような瞳の奥が金色なのか、金色のガラス玉なのかと思わず見入ってしまっていると、
「香菜ちゃん、何か心配事があるの?」
と声が聞こえてきた。びっくりして思わず後ろを振り向いても誰もいない。もう一度クロを見ると、
「私の声がちゃんと届いてよかった。こうして触れ合っていると私と話ができるの。香菜ちゃん、悩んでいることがあれば聞かせて。」
と、クロは自分から香菜の手にすり寄りって語りかけてきたのだった。
そのとたん、香菜は嬉しくて、ほんのさっきまでうつうつとしていた気分はどこかに消え、悩み事なんてなくなったように言った。
「クロにこんな技があるなんてびっくりした!やっぱりクロは魔法使いやったんや。最初に会った時にそう思ってん。」
昨日の夜、いろんな思いが押し寄せてしんどかったこと。今朝はもう学校に行きたくないと体が固まってしまったこと。もう一度目覚めても、何もかもが不安で、悪いことしか起きないような予感しかしなかったこと。そんな気持ちを話し始めた。
クロが心に語り掛けてくれたとたん、ふわっと気持ちが軽くなった。だから、クロと話すなんて夢を見ているのかもしれないけど香菜は今の状況を素直に信じることにしたのだった。
香菜の学校では6年生は7月、夏休み直前に2泊3日で林間学校が予定されていた。そのため、香菜が夏風邪で欠席する前日のホームルームでその林間学校での役割分担を決めたのだった。香菜は自分から意見を言えるタイプではなく、目立たぬように過ごしたかった。できればキャンプファイヤーの後片付け係くらいの地味な役割を希望していたのに、じゃんけんで負けてリクリエーション係というみんなを楽しませるために何か出し物を考えたり、みんなで歌う歌を決めたりと、とんでもなく目立つことをする係の一員になってしまったのだった。
そして、次の日からは放課後に係で集まって意見を出し合い、次のホームルームで発表できるように、いろいろと決めて行こうということになったのだった。
それなのに、熱を出して10日以上も寝込み、回復したのに今日も休んでしまった。すでに「次のホームルーム」は終わっているし、まだ何の役にも立てていなかった。役立つ意見なんて出せそうにもなかったが、集まりに参加して「うんうん」とうなずいているだけでも一応役割を担っている風に見えたはずだった。
病気だから仕方のないことだし、誰も咎めたりはしないだろうに、自分がズルをしたと疑われるのではと、ものすごく心配になってしまったのだった。
欠席している間には、近所に住む美穂ちゃんがプリントなどを持ってきてくれた。微熱になった時に少しだけでも顔を見せるとか、電話をするとか何かつなぎになるようなことをすればよかったのに出来なかった。
1日1日過ぎるごとに友達と離れて行く気がした。そうして昨日になった。直ぐ近所なのだから、ちょっと呼び鈴を鳴らして、明日の朝の約束をすればよかったのに、顔を見せるのが怖くてそれが出来なかった。
林間学校はもうすぐそこまで来ている。それに、2泊めに農家に宿泊する班は、仲良しの誰とも一緒になれなかったし、よく知らない子たちのグループにひとりで入った自分のことをどんなに想像しても、楽しみより心細さのほうが勝ってしまったのだった。
「…長い間休んでしまったからもう私の事、みんな忘れたかもしれへんし。せやから、もうあと1週間ぐらい治ってないことにして、林間も休んでしまおうと思ってん。そしたら夏休みに入るし。」
ため息と一緒に吐き出すように、香菜は言った。
「そう…。お友達と会わない日が長くて心も離れてしまったと思ったのね。」
クロは香菜の虚な眼差しを心配そうに見て言った。
「うん。でもな、もし林間に行かなかったら私の知らないことがまた増えるねん、それも怖くて…転入してから最近やっと友達のことがだんだん分かってきたけど、去年の学校行事も、毎年やってることも私は知らんやん。みんなの常識が私には全然知らん事やねん。何回も転校したから、そんなことにも慣れたけどな。でもな、こんなに長いこと学校休むの初めてやし、ほんとは1日欠席するだけで怖いのにな。
だから…いっそのこと富士山でも噴火せえへんかな?て。ほんだら学校ごと休みになるやん。でもな、ママにはこんなこと言われへん。心配かけたくないねん。」
「そんな風に考えてたのね…。お友達とのことだけど、例えば、香菜ちゃんのお友達が学校を長く休んでしまったら、どう思う?」
「そうやなあ。心配する。せやけど、どうしてる?て聞きに行って焦らせたらあかんし、もしかしたら、会いたくても会えないのかも知れんし。学校に出て来れるようになるまで待つかなぁ」
「そうよね。悪くなんて思わないわよね。あとは香菜ちゃんの勇気が出ればいいんだけど。焦らずに考えてみてね。」
「そうやんなぁ…。私も本当は学校に行きたい。美穂ちゃん優しいのに勝手に怖がってたらあかんな。みんなに無視されたり、いじめられたりしたらまた考える!」
トランプの怖い顔のジョーカーをくるっと裏返せば可愛いキャラクターのカードに変わるように、結局はどのカードもひっくり返せば何の変哲もない絵や模様であって、見方を変えればいい。ただ、それだけのことだと気が付いたのだった。
元気がじわじわ湧き出してきた香菜は、
「クロ大好き!」
と抱きしめた。クロからは少しだけ土と葉っぱの匂いがした。
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