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風の記憶

日曜日の教室の3階の窓から、大きくうねる波のように稲穂が揺れているのが見える。しばらくすると、青いにおいをふんだんに含んだ風が窓から入ってきた。
何を話していたのかすっかり忘れてしまったが、そして彼女がどんな顔をしていたのかももう、思い出せないのだが、この風のにおいだけは、今でも思い出せる。

高校の柔道部、日曜稽古の合間を抜って、柔道着を着たまま彼女の待つ教室に向かう。汗のにおいが気になって彼女に近づけないでいた。
彼女はその長く細い髪を編み込み、くるりと巻いている。僕は美術の教科書にのっていたビーナスを思い出していた。
思っていることをうまく言葉にできない苛立ちと不安、彼女とのそんな時間の中で、唯一、といってもいいくらいに、親密で、永遠の時間だった。初恋だった。

そしてその夏、僕らは別れた。

まだメールも、携帯もなかった時代。やりとりは手紙で、彼女の少し丸まった字と、まとまりのない文章に、何か謎かけがあるのではないかと、何度も開いては閉じ、またしばらくして、開いては、読み返す。口では言えないことも、文章にすれば、なんでも言えた。
手紙をいつまでも取っておく趣味はないのだが、おそらく今、読んでもほとんど意味をなさないようなたわいもないことを書いているのだろう。
ブラスバンドでフルートを吹く彼女に初めて手紙を渡したのは、音楽教室の少し離れた廊下だった。何にも言えなかったけど、ぶっきらぼうに差し出した手紙を、下を向いたまま受け取った時の彼女の美しさを超えるものに、いまだに出会えていない。

午後3時になるとやってくる郵便配達のバイクの音が、自分の家の前で止まるのをじっと待つ。止まった瞬間、曲がった鉄砲玉のように表に走り出て、ポストに入った手紙を探る。ロサンゼルスの消印の入った手紙。別れてからも、留学した彼女は、時々、思い出したように手紙をくれた。僕もそれ以上に長い手紙を書いた。
でも、それでも彼女は、一度も別れた理由を教えてはくれなかった。僕もまた、それを聞くことは、なかったのだった。

大切なものは突然、なくなるものだ。永遠の時間は、一瞬で終わる、なんの理由もなく。

こうして僕は大人になった。

3年くらい引きずった僕の初恋は時間をかけて終わっていった。彼女の顔も、思い出もうすれ、僕はそのあと、何人かの女の子と付き合い、ベッドを共にし、随分とひどい振り方をしたり、振られ方をしたり。

若い、ということはもうそれだけで暴力なのだった。

去年、思い切って断捨離をしたとき、一通だけ、彼
女の手紙が出てきた。全部、捨てたと思っていただけに動揺し、思わず、後ろにいる妻を見た。
少し、ためらったが、中を開け、一枚だけ入った便箋を開こうとして、やめた。そこにあるものが何であるのかわからないが、そういうものは、見ないほうがよい、というのが僕が一瞬で出した結論だった。
風のにおいにのって運ばれてくるような思い出だけが、美しい。余計なものは、もうすっかりと捨ててしまおう。
読まれなかった手紙のように。

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