知るリスクとコンテンツ力と大室櫻子
「知ったら戻れない。で、摩擦が生まれる、知らない人との。」
なるほど、「知る」というのは基本的に不可逆で、「忘却」の機制が働かない限り、ある意味で枷として人の行動に影響を与え続ける。何も知らない状態の方が、より生(き)のままの人間性を剥き出しにしてくれるのかもしれない。
「ジブリ全く見てないってことは人と違うってこと」
「今は知らないほうがアツい」
以前オモコロブロスに投稿された、みくのしんが『走れメロス』を読む記事。オモコロ本記事ではないにも関わらずえげつない大バズりをしたことは、まさに快挙と言っていい。教科書にも載っており、多くの人が触れたことがあるであろう不朽の名作を、32歳の彼が、今、“知らないからこそ”心から真面目に向き合う姿は大きな反響を呼んだ。
『ゆるゆり♪♪』第三話
「ゆるゆり」シリーズの中での大室櫻子と古谷向日葵の関係性において、櫻子の「無知」さは大きなウェイトを占める。
櫻子は、無知かつ快活な少女として、日常を全力で過ごしている。そのエネルギーが行き場を失うことなくストーリーの中でまとまっているのは、他ならない向日葵がそれを受け止め、ひいては打ち返すという技術を兼ね備えているおかげである。
そうして、ある意味でもつれるように進んでいく彼女たちの日々の途中で、ある転機が訪れる。
ちなつ(別の友人)が、向日葵に、マフラーの編み方を教えてもらうことになったのだ。
実は、櫻子と向日葵は、表面上はライバルである。
櫻子は、七森中生徒会次期副会長の座を奪い合う仲である向日葵との敵対を隠すことなく、むしろ積極的にあらわにしている。
が、「喧嘩するほど仲がいい」と言うように、櫻子にとって向日葵は無二の友人であり、また―
無知な櫻子に、どうして向日葵とちなつの関係への感情が「ヤキモチ」であることが理解出来ようか。中学生の、しかも女子ともなれば、そんなことは知っていて当然だろう。
しかし、櫻子は知らない。彼女は、訳も分からないまま、胸に抱える不明瞭な感情と向き合わされる。
思うに、その姿をたまらなく美しく感じるこの感動は、みくのしんが走れメロスに向き合っていた時に感じた感動に似ている。「既に知っているから」と、真摯に物事に向き合うことに怠けてはいけない。しかし、そんな疲れることをいつまでも続けてはいられない。人々はどこか投げ出すように、目の前の事象を自分が既に知っている、知ってしまっているテンプレにはめ込むのだ。
「知らない」がもたらす強制的な向き合いは、疲れてしまうから、避けたいものかもしれない。
しかし、向き合わされた人が、躍起になって、煩悶を重ねて、懊悩を巡らせるその姿が、やはりたまらなく美しいのである。
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