『大天使ミカエル』読書会のまとめ(3/3)

 大天使ミカエルのおかげで、私たちはキリスト衝動を受け入れ、それによって自らを貫くことで、本来の「人間」となる。
 私たちがキリスト衝動を受け入れられるのは、キリストがゴルゴタの秘儀によって「人間=地球」と一体となっていたことにもよる。
 私たちは、ゴルゴタの秘儀を「事実」として人類の進化発展の中に認める必要がある。

3 人類進化におけるゴルゴタの秘儀の意義 - ゴルゴタの秘儀の前後
(1) ミカエルは「夜の霊」から「昼の霊」へ
 ゴルゴタの秘儀以前は、ミカエルは人間の暗い(眠りの)意識に呼びかける「夜の霊」として、秘儀参入者の「夢」に働きかける存在だった。しかし、ゴルゴタの秘儀によって、キリストが「地球=人間」と結びついた後は、人間個人の明るい見霊意識において、「人間存在に関する本来の秘密」を啓示する「昼の霊」となった。
(2) ギリシャ的思考と近代自然科学的思考 - 二重の魂を三層の意識を認識することによって調停する
 ゴルゴタの秘儀の約450年前からのギリシャ的思考は、古代秘儀の神的啓示(宇宙秩序の根本原因を含む)の最も素朴な思考・表象形式である。
 それとは対照的に、15世紀の初めからの約450年で形成されつつある(現代の)ガリレオ的自然科学的思考法は、秘儀ではなく、自然プロセスから徐々に読みとられた論理である。
 古代の秘儀文化を頭部で想起させるギリシャ的知性と、近世に始まる新たな秘儀文化に向けた準備とが結びつくためには、ゴルゴタの秘儀を「事実として」人類の進化発展の中に認める必要がある。
 繰り返される地上生についての自己認識が必要である。人間が再受肉を経て今世にもち込む前世の成果(思考・感情)と、今世における来世のための準備(意志)とを二重の魂として理解するのである。この二重の魂に向き合うように、意識の三層を認識することによって、私たちはギリシャ的思考と近代自然科学的思考を内面において調停しなければならない。
 第一層 明るく目覚めた、思考・表象的、知性的意識。
 第二層 夢見的な、感情的、イマギナツィオーン意識。
 第三層 熟睡する意志的、インスピラツィオーン意識。
 このうち、第一層の意識は、「自然の外的観察のみに基づいた真理を見て気づくもの」であり、確実性を主張できない。これに対して、第三層の意識は、「外的な自然理解のための諸科学、例えば数学や幾何学」であり、確実性を主張できる。
 第一層の(ルツィフェル的)意識と深く結びついていたのが古代ギリシャ人であり、第三層のインスピラツィオーン意識の一部で生じ、第一層の(表層)意識に打ち出された(アーリマン的な)ものと強く結びついているのが近現代人である。
 これを調停するためには、第二層の夢見的、イマギナツィオーン意識を内なる体験によって、より完全で明瞭な世界認識にまで高めることが必要である。第二層の最も不確実な要素、非論理的な波立つ夢が、(キリスト衝動として)受け入れられれば、不一致を調停できるのである。
(3) 人間の三分節 - 父(神)・子(キリスト)・霊性を見出せないこと
 人類の進化発展において、人間を内的に三分節的に理解できる。
 古代ギリシャ人は思考の中に神性の作用を感じとっていた。無神論者は、有機体(生体)の異常から生ずるのであり、私たちが完全に健康な生体のもとで神を見出せないのは、「病気」である。また、人間が内的に必要としているキリストを見出せないのは、「不幸(不運)」である。さらに、人間が自己の霊性と世界の霊性との結びつきを見出すために、自己の霊性を把握できないのは、魂の「弱さ」(魂的無気力)である。
(4)  自然(必然性)と人間(意志)の自由との統合① 神概念の変容
 四世紀以前の「全知ナル神」という神概念は、十五世紀までには「全能ナル神」に変容し、十五、十六世紀から十八世紀には「自然」へと入り込み、「全能ナル自然」(自然必然性の全能さ)となった。ところが、この自然必然性の全能さは「人間(意志)の自由」と相容れない。
 十八世紀以降の時代(ミカエルの時代)においては、「ミカエル(に依り添う)思考」(自然必然性と人間(意志)の自由との統合)へと向かう必要がある。「意識的な」精神生活によって自然(必然性)と人間(意志)の自由とが再び統合される必要があるのである。
(5)  自然(必然性)と人間(意志)の自由の統合② 世界観の進化 
 後アトランティスの世界観は、古インド文化期(超時間・超空間的)、原ペルシャ文化期(楕円:内外同一の神的存在)、エジプト・カルディア文化期(レムニスケート:外的自然存在と内的人間存在が、呼吸プロセスにおいて交差)、ギリシャ・ラテン文化期(レムニスケートの交点が失われ、二つの部分に)と進む中で、外的自然存在と内的人間存在とが共有していた交点が意識から消えた。
 十五世紀以降(第五文化期)、この交点を「意識的に」獲得する必要が生じた。ただし、それはエジプト・カルディア期のように空気を呼吸することによってはなされない。
(6)  自然(必然性)と人間(意志の自由)の統合③ 空気から光へ
 それは、光(によって照らされる感覚知覚物)を「呼吸する」ことによってなされる。感覚知覚物に生命ある魂の存在を認識し、宇宙とのエーテル的交流を洗練するのである。「世界の思考内容の私たちの外から内への作用」と「人間の意志の私たちの内から外への作用」とを吸気と呼気として、世界の思考内容と人間の意志の交差を「意識的に」生じさせるのである。新しいヨーガ意志の展開である。外から内への魂的プロセスを識閾下深部の内的な魂的プロセスが把握することで、二つの魂的プロセスが交差するのである。
 私たちが何かを見聞きするたびに、霊的・魂的なものが私たちの内部に流れ込み、同時に私たちが魂的なものを世界(宇宙)へと送り出している。
 私たちは、ゲーテの言う純粋現象、根源現象(ルツィフェル的思考内容が紛れ込んでいない)に到達すると、物質的なものと霊的なものとの相互作用を、感覚的知覚において統一的なものとして認識する。感覚知覚の対象物を「光に照らされたもの」として、「観照」するのである。外界を見るときに、私たちの意志の展開をも感じとることを可能にする何かを外界で体験するのである。
 自然の中にある魂的なものを感覚的知覚によって受けとるようになれば、私たちは外的自然に対するキリストの関係をもつ。外的自然に対するキリストの関係が、一種の霊的呼吸プロセスとなる。
 焔を見、眼を閉じる。消えていく焔の残像のイメージを、私たちはエーテル界に刻み込む。私たちの内の主観的-客観的プロセスは、精妙な仕方で同時に宇宙プロセスでもある。私たちは、魂的なものが同時に客観的な世界プロセスでもあることを意識する必要があるのである。
 空気の魂プロセスは、ゴルゴタの秘儀の後、光の魂プロセスへと移行した。魂が光の翼に乗って宇宙空間を貫き通ってくるようになり、人類は物質的プロセスを、生命ある魂としても認識し始めるようになった。
 空気と光のメタモルフォーゼをこのように魂的に洞察できてはじめて、私たちは次第に、人間そのものをも、霊的-魂的に把握することができるようになる。そして、私たちは相互に作用しあう霊・魂・体をもつようになり、これがミカエル文化となるのである。
 さらに言えば、魂の真の永遠性という見方に、新しい方法で再び到達することがミカエル文化なのである。

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