『大天使ミカエル』読書会のまとめ(2/3)

 あらかじめ、次のことを補足しておく。
 『大天使ミカエル』では、ルツィフェルはもっぱら頭部・知性の領域に働きかける存在として、アーリマンはおもに四肢・意志の領域に働きかける存在として描かれている。(これは「人類の代表者(キリスト)」に見られる配置である。)
 アーリマンは、15世紀からの450年間に人間の思考や感情の中にも入り込んだ。当初、四肢・意志の領域から侵入したアーリマンが、胸部において(キリスト衝動に貫かれていないため)堰き止められず、頭部へと昇っていき、思考を引き摺り下ろすのである。(そして、唯物的思考が生じる。)
 また、『大天使ミカエル』では、人間をいったん、頭部領域と頭部以外の有機体領域の二つの領域に分けて考察している。頭部領域にはルツィフェルが、頭部以外の有機体領域にはエクスシアイ(形態霊、キリストに関係)とアーリマンが働く。
 
2 ルツィフェル・アーリマンとの闘い - キリスト衝動によってバランスをとり、三体性(三位一体)をなす
(1) 人間の頭部領域におけるルツィフェルの働き
 ミカエルは、紀元前8~7世紀ごろ、天空の戦いにおいてルツィフェルを人間の「頭部」に投げ堕とした。ルツィフェルは人間の頭部に棲みつき、知性の衝動をもたらす。人間は、感覚知覚的・知的存在となり、知性や論理の分野ではお互いに一致性を見出し、協働関係を結べるようになった。(この一致性には強制性があり、そこに自由(個人性)はない。)
 人間の頭部領域は、宇宙進化の始まり(土星期)に由来し、現在は進化発展の下降期にある。また、人間の頭部は動物に由来する部分であり、破壊・死滅化の傾向をもつ。(ただし、霊的にはさらなる進化の可能性をもつ。)この事情は、脳・神経が消耗・破壊されることで、そこに思考プロセスが像を結ぶことにもあらわれている。
 死滅化の方向にある知性にルツィフェルが生気(生命力)を送ることで、人間は、思考・表象内容(空想)を実体(現実)と錯誤させられる。人間は知性領域に留まるようになり、本来の進化発展から叛かされる。「人間存在を超えさせられる」のである。(ただし、そのおかげで、芸術的造形が実体となるし、また空想が現実になるように人間は最大限の努力を払うこともできるようになった。「自由」へと促されるとも言える。)
 人間の頭部は、頭部以外の有機体から送り込まれる血液や生命力、思考像によって活性化され、維持されている。しかし、その(悟性的・知的)思考像はルツィフェルの影響下に置かれる。
(2) ルツィフェルとの闘い
 人間はまずはこのルツィフェル下の知的思考像が鏡像的性格をもつということを見抜く必要がある。そして、そのルツィフェル的知性に胸部から神的叡智を送り、雷霆の一撃を加える。ルツィフェル的知性は、ミカエルを通してキリスト原則によって抑止される必要があるのである。そして、知性が神的叡智に浸されることで、人間は本来の進化発展の方向へと軌道修正する。(これによってルツィフェルも救済される。)
 さらに、この一撃によって、ミカエルが成ったもの(「強さ」)によって、私たち人間はアーリマン的なものに対抗し、それを取り去ることができるようになる。
 「美」を例にとると、近現代人は、古代ギリシャのルツィフェル的な美にとどまるのではなく、現実世界における美と醜の相剋の中に、大胆に、かつ勇気をもって入り込み、そこに芸術の究極を見出す「強さ」を必要とするのである。音楽で言えば、協和音との闘争劇の中で不協和音を感じ、それに共感情を抱き、それを共体験することが私たちの課題なのである。
(3) アーリマンの侵入
 人類進化の過程において、人間が頭部のルツィフェル要素を十分に認識することをしなかったため、15世紀ごろに人間の腹部・新陳代謝系・四肢にアーリマン存在が侵入した。アーリマンは、「人間の体はすべて動物系である」という虚構(本来は頭部のみが動物系である)を人間に吹き込み、自由への芽を摘む。そして、アーリマンによって、人間の意志の力、腹部・四肢の生命力の中に死への力が送り込まれると、人間の意志は低次の衝動に縛り付けられ、エゴイズムがはびこる。(ただし、アーリマンの侵入によって、ルツィフェル・キリスト・アーリマンという三体性(三位一体)をなす可能性が生じた。)
 頭部以外の有機体の領域は、胸部は月紀に、腹部・四肢は地球紀に由来する、比較的新しいものである。
 アーリマン存在は、木星紀に人間段階に昇格する存在であり、背後から強い意志力や方向づけの力を与えられ、人間の意志の力と一体化する衝動を形成する。そして、大群となることでその本性を超え、人間の曇った意識を通じて侵入し、真のキリスト衝動に貫かれていない人間の意志を衝動化する。
(4) アーリマンとの闘い
 先に述べたように、ルツィフェルとの闘いを通してミカエルが成ったもの(「強さ」)が重要になる。人間は、ミカエルのこの不断の能動的活動によって、アーリマンの侵入に対して武装する必要がある。そうしないと、(例えば、宿命論(自然必然性)に屈すると)人間の頭は弱り、意識は受動的になり、アーリマンの侵入を許してしまう。キリスト衝動が人間の魂に入り込む際に必要な「強さ」が失われてしまうのである。人間は、自らの衝動を明確にし、神的な理想を意志(願望)に取り込む必要があるのである。 
(5) ルツィフェル・アーリマンとの闘い① ミカエルを出迎える
 ルツィフェル・アーリマンは、肉体的には私たちを内的な病気と死に引き渡す。魂的には思考・表象・空想の世界を現実と錯誤させる。そして、霊的には人間の意志の根底(願望)に個人的要素(エゴイズムの欲望)をもち込み、人間の魂的・意志的能動性を死に向かわせる。
 ミカエルは、物質と霊性を一つと見る「強き」霊として私たちを貫き、私たちはキリスト衝動によって地球と一つになった霊性を完全に自分のものとする。(これが、第一の啓示「コトバの肉化」に続くミカエルの第二の啓示「肉のコトバ・霊化」であり、これからの人類の目指すものである。)人間は、木星紀への進化発展のためにも、「ミカエル(に依り添った)思考」を学び、自らの内にキリスト衝動を見出す必要があるのである。
 私たちは、まず、高次のヒエラルキア存在、人間、動物、植物の同質性を理解しなくてはならない。謙虚さと謙遜を身につけ、身近な周囲環境・人間の中に超感覚的なものを生き生きと意識するよう自らを整え、自由に、囚われなく、キリスト衝動を知覚することが必要となるのである。
 表象・思考世界の反射鏡的性格を認識し(反射鏡的思考を実体と錯誤させるルツィフェルとの闘い)、超感覚的実在から生じるものだけを意志(願望)の中にもち込む(意志をエゴイズム化するアーリマンとの闘い)ことで、私たちはミカエルを出迎えるのである。
(6)  ルツィフェル・アーリマンとの闘い② キリスト衝動による三体性
 ルツィフェルにつかまれた頭部とアーリマンにつかまれた四肢(新陳代謝)との間の胸部(リズム組織・心臓)に、キリスト衝動による心の論理・叡智、「方向づけの力」が入り込まなくてはならない。神的叡智・神的力・キリストは、ミカエルをとおして、胸部(心臓)から働きかけるのである。
 人間が意識の中間層(胸部)を真にキリスト衝動によって貫かれることで、アーリマン的諸力は、そこを通り抜けて上へ行くことができず、知性的諸力を引き摺り下ろすことができなくなる。
 人間はキリスト衝動によって自らを貫くことで、バランスをとり、ルツィフェル・キリスト・アーリマンという三体性(三位一体)をなすのである。
 
 さて、ミカエルはキリスト衝動への道を開示するが、そのキリスト衝動は、ゴルゴタの秘儀によって地球文化の中に継承されたものである。
 次回【『大天使ミカエル』読書会のまとめ(3/3)】は、このゴルゴタの秘儀の意義、またゴルゴタの前後で変化したことについて見ていく。

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