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父が私をわからなくなった日(3/5)

このテキストは「父が私をわからなくなった日(2/5)」の続きです。

これを書こうと思ったきっかけは、父への気持ちに大きな変化があったからです。

父は私が幼い頃からしつけに厳しく、またよく怒るので怖いというイメージが強く、近寄りがたい存在でした。それでも自分の父親だからと、どこかで父を怒らせないように良い娘を演じようとしていたところがありました。
しかし、父の病気をきっかけに実家で二人で過ごすことになり、その短い期間の中で父と真正面から向き合い、等身大の父を見ていくうちに、「本当の父はこういう人だったんだ」と今までとは真反対の見方をするようになりました。そして、「遅いかもしれないけど、今、父のためにできることをしたい」という気持ちが込み上げてきました。
父の病気をきっかけに父に対する気持ちが変化していった、自分のその時の様子を書き留めておきたいと思い、書くことにしました。

初めての自己導尿を何とかクリアした父と私。
その日から、父の自己導尿については父の「もよおしてきた」を頼りに行いました。ということは、夜中であってもです。ゆえに、父の横に寝床を作り、24時間父のそばにいるという生活に突入しました。

夜中は私もゆっくりと寝たい、父にもゆっくりと寝てほしいという思いから、寝る前は極力水分摂取は控え、寝る直前に自己導尿し就寝しましたが、そううまくいくはずはなく、2~3時間おきにトイレへ。夜中、ぐっすりと寝入っているときに起こされるのはとてもつらかったのですが、「絶対に怒らない」を繰り返しつぶやきなら身体を起こしました。

泌尿器科を受診した時に前立腺肥大のお薬が処方されていて、毎食後に飲みます。これは前立腺肥大を抑える薬らしく、薬と自己導尿をセットで続けていると、自力排尿ができるようになるかもしれないというお医者さんの言葉を頼りに忘れることなく続けていました。

自己導尿が始まって1週間、2週間と過ぎていく中で、父とは極力話を続け、買い物や散歩も取り入れながら体力の方の回復も願って続けていましたが、体力については少しずつ回復の兆しは見て取れましたが、未だに日常生活のあれこれについてはわからない(思い出せない)ことが多く、買い物に行っていたスーパーの場所、買い物時の支払いのしかた、行き帰りの道順など。そして、この時でさえやはり私のことはスタッフさんだと。

どうすれば父に少しでも覇気が戻るかなぁと考えていた時、
「そうだ!将棋だ!」と閃きました。
父は若い頃より碁会所に通っていて、囲碁や将棋を楽しんでいました。好きなことならルールは忘れていてもやれるかもしれないと思った私は、早速将棋盤を出してきて父に対戦を申し込みました。ちなみに私は将棋のルールを知らないド素人。父に将棋を教えてもらいながらやってみることで、父も頭を使いながらも楽しめるのではないかと思ったのです。
私:「お父さん、将棋しない?」
父:「お~、将棋か。やってみるか」
この日から一日に2,30局の対戦をしました。
当然、週末に交代してくれる姉も巻き込まれていったのです。

が、この将棋がとても良い兆候を見せてくれました。
今まで無表情だった父の顔に笑顔が出てきて、さらにとてもへたっぴで弱い私や姉にはハンデを設けてくれたり、1局終わるごとに今の勝負について指南してくれるようになったのです。
将棋をしているときには全くもって以前の父のようでした。言葉もはっきりしていて、認知症と病気が治ったのではないかと思えるほどの元気さでした。
嬉しい発見がある中、なによりも父に笑顔が出てきたこと、これはとても嬉しかったことを覚えています。
そして、更に嬉しいことに姉や私のことを娘だと認識し始めてくれたのです。

父に覇気が出てきたので、次の段階として、今の姉や私との24時間二人だけの生活に少し刺激を加えるにはどうすればいいかを姉と話し合いました。刺激を加えるには人との交流が必要ではという観点から、以前通っていたディサービスに行ってはどうかと考え、ディサービスに連絡をしました。ディサービスからの返事は「どうぞ来てください。看護師もいるので自己導尿についてはこちらでも十分に対応できます」。

早速、自己導尿セットと毎日の自己導尿記録を手提げ袋に入れてディサービスに通う日々が始まりました。朝の9時過ぎから夕方の5時ごろまでです。私も少し疲れが出ていたので、父がディサービスに行っている間は家の中の片づけや買い物などができ、疲れが緩和されていきました。ディサービスに通い始めたとて、朝食後の対局、夕食後から寝る前までの対局はびっちりとスケジュールに組み込まれています。しかし、日中に家の片づけができることで虫嫌いな私にとって生活環境を整えることができ、少しずつ余裕が出てきました。

そんな生活を続けていく中で、姉と私は父が以前と同じように独りでの生活ができるようになることを望んでいたのですが、毎日一緒に生活しているとその望みは皆無に近いという風に思い始めました。
この時の生活と言えば、姉はウィークデーは朝から晩までの仕事、そして週末は実家で父との生活の繰り返し、私は仕事を全面的に休んでの生活。姉も私も仕事なしでは生活が成り立っていかないため、今のこの状態を継続させることは難しい。
姉は、実家から仕事場に通うことも考えていたのですが時間的にも難しく、私は午後からの仕事なので仕事を終えてから実家に戻ることが難しい。それならば、いっそのこと実家の近くで新しい仕事を探そうかとも考えましたが、いろいろなことを考えるとそれも難しい。
結論として、姉や私が父と一緒に生活を続けていくと、どのパターンで考えても共倒れになってしまうということになるため、父には申し訳なかったのですが母と同様に施設に入ってもらうことを考えるようになりました。

施設については姉がケアマネジャーさんと相談し、ケアマネジャーさんがいろいろな施設を調べてくれました。もちろん、母がお世話になっている施設にも聞いてくれました。
しかし、一番ネックとなったのが「自己導尿」でした。夜中の自己導尿も必要なため、夜中に看護師さんが在中してくれている施設でなければいけないということなのです。でも、自己導尿については以前の記事にも書いたように、今後のことも考えて、自己導尿を始めた最初から父自身で導尿をしており、看護師さんは傍で管を手渡してくれたり、次の手順を教えてくれたりしてもらえればいいように進めていたので、「看護師さんでなくてもスタッフさんでも対応できます」ということをお伝えしながら施設を探してもらいました。しかし、どの施設も自己導尿をしなければいけない人は受け入れていないという返事ばかりでした。ケアマネジャーさんもご自身が持っているネットワークをフルに使って方々の施設を探してくれたのですが、1件も見つかりませんでした

「やっぱり、転職かなぁ・・・」
ほぼ諦めていた時、10月の初めに新しくオープンする施設があって、そこの施設長はどんな困難な人でもなんとか受け入れられないかと考えてくれる人で、その人のおかげで多くの人が受け入れてもらっている、そういう人がいるとの情報がケアマネジャーさんから入ってきました。更に嬉しいことに、その施設では10月半ばから夜中に看護師さんが在中するとのことでした。天にも昇る思いで姉と一緒にその施設に話を聞きに行きました。

その施設はまだ入所者の数は少なかったのですが、だからこそスタッフさんの目が一人一人の入所者さんに行き届きやすいのではないか、また、父の自己導尿についてはもちろん看護師さんが対応してくれるのですが、父自身が自分で自己導尿できるのであればスタッフでも対応可能ですと。それ以外にも父が入院してから今まで家でどのように過ごしてきたか、父の性格、父の今の状態などを何も隠さずすべてありのままに話をしました。それでも父を受け入れてもらえるのかを知りたかったからです。
姉や私の話をすべて聞き終えた後、施設長さんは「どうぞいつでも来てください」とおっしゃってくださいました。
肩の荷が下りた気分です。本来ならば娘である姉や私が最後まで父のそばにいるのが良いと思っていたのですが、認知症が入ってしまった父にとってどの状態が一番幸せなのかを考えたとき、姉と私の結論は「最後は父と母が一緒に生活をしていること」でした。
母は介護度5なので、どうしても施設にお世話にならなければいけません。ここの施設長さんの話では、いずれは母も受け入れてくれるということでしたので、「もうここしかない」と思いました。

一難去ってまた一難・・・
このころの父はやっと今居るところが自分の家であることを認識し始めていました。母のことも記憶から抜けていきつつあるのですが、以前に母のいる施設に頻繁に通っていたことをふと思い出すことがあって、「僕は施設は嫌だなぁ」と言うこともありました。それだけ今居るところに対して自分の家という認識が出てきていて、さらに居心地が良いと思っていることの表れだと思いました。

今回は、そんな父の思いとは正反対の施設への移動を父にお願いしなければいけません。心が痛みました。どうやってこの話を父にしようかと。

まずは父の洋服の整理から始めました。ここ数年独りで生活していたので、洗濯も十分ではないこともあったでしょう。昔に母が買っておいたものがそのまま箪笥の肥やしになっているものもあるでしょう。そういうものから必要なものを父と一緒にピックアップすることで、少しずつ身の回りの整理を始めたのです。

ある日の夕方のこと、その日は、今度お世話になる施設の施設長さんが父と面談する日でした。
ディサービスから帰ってきた父に、
私:「今日は施設の方が来られるのね。お父さんにいろいろと聞いてくると
   思うのね」
父:「そうかぁ。よくわからんなぁ」

夕方、施設長さんが来られました。
施設長:「今日は、うちの施設に入っていただくための面談に来ました。
     私は○○です(名刺を出される)」
父:「こんばんは。ご苦労様です」
このように面談が始まったのですが、施設長さんが父にいろいろな質問をし、それに父は素直に受け答えをしている、そんなやり取りが30分ほど続きました。

父:「こんな時間にお仕事って大変ですなぁ。もうこれで終わりですか?」
施設長:「いや、あと1件伺うところがあります」
父:「あら、そうなんですかぁ。本当にご苦労なことですなぁ。身体に気
   を付けてください」

父と施設長さんのやり取りを聞いていると、父が以前の父に戻ったような気がしました。施設長さんの話は理解できていて、聞かれたことにも普通に受け答えしていて。
再び、私の心が痛みました。
「これでよかったのか」と。

その日の夜に、姉にこのことを話すと涙が出てきました。姉も同じ気持ちでした。姉も電話口の向こうで泣いていました。
「これが最善策やよ。これが一番いいんよ」
二人でお互いを励ましあいながら、しっかりと進めていこうと決心しました。

父がディサービスに行っている間、私は泌尿器科に行って、施設のかかりつけのお医者さんへの紹介状を書いていただいたり、導尿グッズを大量に購入しました。また、施設に入所するために必要な日用品等を買いそろえたりしました。それらの道具は父の目に留まらない部屋にこっそりと置いておきました。とは言え、施設への移動の日が近づいてきます。
ちゃんと父に話をしなければ。
私:「お父さん、今ね、私、仕事を休んでるのね」
父:「それはあかん。ここに来てくれているからやなぁ」
私:「うん、それでね。
   今、お姉ちゃんと私が交代しながらここに来てるでしょ。
   もし、どちらかが体調を崩して来れなくなったら、例えばそれが私
   だったら、お姉ちゃんは仕事を休まなければいけないのね。お姉ち
   ゃんの仕事柄、それは難しいのね」
父:「うんうん」
私:「そうなった時を思うと、お父さんのお世話をするのにお姉ちゃんと
   私だけでは無理なときが出てくるのね」
父:「うんうん」
私:「じゃあ、どうすればいいかを考えると・・・
   もう少し多くの人の手があればいいと思うのね」
父:「うんうん」
私:「家に誰か来てもらうとしても、その人は夜は帰ってしまうから、夜
   夜中にお父さんが困ったときに誰も居なくなってしまうのね。
   そう考えると、誰かに来てもらうっていうのは難しいのね」
父:「うんうん」
私:「いろいろとお姉ちゃんと考えたんだけれども・・・
   お父さんにはそういうたくさんの人がサポートしてくれるところに
   行ってもらうことで、ご飯や買い物などの心配もせずに済むし、困
   ったときには誰かが必ずサポートしてくれる。だから、そういう所
   に移動してもらわないといけないことになるのね」
父:「うん、そうやな。
   ここでは自分では買い物一つできないしなぁ。ご飯もどうすればいい
   かわからないしなぁ。サポートしてくれる人がいてくれたら安心やな
   ぁ」

思ってもいない父の返事に、少し救われた気がしました。
いよいよ2日後に施設へ移動です。


この続きは、また次のnote(「父が私をわからなくなった日(4/5)」)で書きたいと思います。


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