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父が私をわからなくなった日(4/5)

このテキストは「父が私をわからなくなった日(3/5)」の続きです。

これを書こうと思ったきっかけは、父への気持ちに大きな変化があったからです。

父は私が幼い頃からしつけに厳しく、またよく怒るので怖いというイメージが強く、近寄りがたい存在でした。それでも自分の父親だからと、どこかで父を怒らせないように良い娘を演じようとしていたところがありました。
しかし、父の病気をきっかけに実家で二人で過ごすことになり、その短い期間の中で父と真正面から向き合い、等身大の父を見ていくうちに、「本当の父はこういう人だったんだ」と今までとは真反対の見方をするようになりました。そして、「遅いかもしれないけど、今、父のためにできることをしたい」という気持ちが込み上げてきました。
父の病気をきっかけに父に対する気持ちが変化していった、自分のその時の様子を書き留めておきたいと思い、書くことにしました。

父の施設への移動は週明けの月曜日に決まりました。
いつものように土曜日に姉と交代し、私は一旦家に戻って、月曜日の朝に父の居る実家に戻ります。

移動の朝、実家に行くと、姉から「お父さんには移動のこと話してない?」と聞かれました。
「やっぱり」
父には移動のことを何度も話し、その度に父も移動は仕方ないと納得してくれていたのですが、忘れてしまっていたのです。

当日の朝、父はどこにも行かないと言い始めたのです。
困りました。
移動には、今回お世話になった担当者の方、そして荷物の移動を手伝ってくれる叔父が予定をしてくれています。

私:「お父さん、この前話したんだけど覚えてるかなぁ。
   お姉ちゃんと私の二人ではサポートが難しくなる場合が出てくる
   のね。今日はお父さんをサポートしてくれる人が居るところに行こ
   うと思っているんだけど、一度見に行ってみない?」
父:「・・・見るだけなら」

『そんなにとんとん拍子に行くはずがない。
父が気に入らなければ荷物だけおいて戻ってくればいい。
仕事はもう少し休んで、ゆっくりと父が施設に馴染んでくれるように回数を重ねていこう』

姉と相談して、今日は見に行くだけにしようと決めました。

父は移動する車の中で終始無表情無言でした。
でも、施設に近づくにつれ景色が変化していく中で、父がぼそっとつぶやきました。
「田舎に似てるなぁ・・・」

そうなのです。姉と私がこの施設に決めた最大の理由の一つに施設の周りの景色が父が幼少期に育った田舎にとても良く似ていたからなのです。
父が病気になり、退院したあと急に認知症になったことは前回までにお話ししましたが、父は家族や親せきなど人の顔は叔父以外はすべて忘れてしまっていたのですが、自分が幼少期に育った田舎だけは鮮明に覚えていたのです。
自宅療養が始まったときも、一日に十回も二十回も田舎の話をしていました。その田舎を自分の家だと思っていたのです。

今回お世話になる施設は、周りに山があり、すぐそばを川が流れ、昔ながらの石の橋が渡してあり、川沿いは桜並木が遠くまで続き、そして田んぼや畑が広がっています。ぽつぽつと点在する家々は昔ながらの瓦屋根に土壁の家。施設を出れば稲の香りもします。時には施設に蛙が何匹も遊びに来ています。
こうした季節を感じることのできる風景が、父が育った田舎にそっくりだったのです。


施設に到着しました。
施設長:「お父さん、こんにちは。待ってましたよ」

多くの方が荷物の搬入を手伝って下さり、父の新しい居住地ができました。
でも、父は不安そうです。
知らない人だらけ、知らない場所。

父:「ここにいつまで居ないとあかんのかなぁ。3日ほどで限界やわ」

父がそう私に耳打ちしました。
心が痛みました。
『今日は、父を連れて帰ろう』

そう心に決めたとき、
施設長:「お父さん、調子はどうですか?」
父:「調子は悪くないよ」
施設長:「今日は一度ここに泊まってみませんか。娘さんたちは明日お仕事
     があるようなので」
父:「・・・仕事なら仕方ないなぁ。仕事は大事やからなぁ・・・」

父の部屋は2階です。玄関扉の真上の部屋で、玄関前の駐車場に面していて、広いバルコニーもあります。
私:「お父さん、じゃあ、私たち帰るね。また来るからね」
父:「今日はありがとうな。気をつけて帰れよ。
   ここ(部屋の入口)でバイバイするわな。玄関まで行くと寂しくなる
   からなぁ・・・」

父は、バルコニーに出ていて、叔父の車に乗ろうとしている私たちに手を振ってくれました。無表情のままで。
姉も私も涙が出そうになりました。
「これでよかったのかなぁ・・・」
「これでよかったのかなぁ・・・」

しばらく叔父の運転する車の中はどんよりとしていました。

「これが最善策やよ。これが一番いいんよ」

父が施設でお世話になることは、今までに繰り返し繰り返し考えて考えて出した結論。自分たちの気持ちにも何度も向き合って決めたこと。
これがゴールではなく、これからの父の様子を見ながら、またその時はその時の状況に応じて考えればいい。
一旦ここで心に一区切りをつけよう。

叔父の車で実家まで送ってもらい、しばらく留守にする家の片づけをしました。保存できない食べ物は持ち帰り、ガスや水道は元から止め、雨戸も閉め、玄関のカギを閉めました。

自宅に着くと、
「あぁ、もう明日からは実家に行くことはないんだぁ・・・」
「いつもなら、週末に自宅に戻って来ては忙しく家の用事を済ませ、次の日にはまた実家へ向かっていたけれども」
「明日からはもう行かないんだぁ・・・」
「父は今頃、あの部屋で何をしているだろうか」
「ご飯は食べられただろうか」
「今晩寝られるだろうか」
そんなことばかり考えてしまい、何も手につきませんでした。
どっと疲れが出てきました。
でも、進むしかない。

私は普段から母とはよく話をしてきたのですが、母が施設に入ってからは、なぜか母と会うのが怖くなっていました。
母が病院に入院したのはコロナが蔓延し始め、日本各地で緊急事態宣言が発令され、病院の面会も全くできなくなった頃です。半年ほど入院をした後、施設に移動しました。施設への移動はコロナ禍ということもあったので姉だけが対応してくれました。私は長い間母と会うことなく、母のことは施設の方と連絡を取ってくれていた姉から聞くのみでした。母の様子を聞きながらその時の母の様子を自分なりに想像していたのですが、どうしても悪いほうに悪いほうにしか想像できませんでした。
そのようなことが続くうちに、施設に入る前の母と、次に会った時の母があまりにもかけ離れてしまっていたら、私は素直に「お母さん」と言えるだろうか、そのような恐怖心から怖さへと変わっていったんだと思います。

でも、父に対しては違っていました。
施設に入ってから、1日、2日、3日・・・と日が経っても
「どうしてるかなぁ」
「今度の週末に顔を見にいてみようか」
と、なぜか気になりました。
なぜ、父と母で自分の気持ちが違うのかよくわかりません。

数日後、姉から連絡がありました。
父は自分の部屋にある荷物をまとめて、施設の玄関へ行き、
「お世話になりました」
と、施設を何度も出ようとしているようなのです。
施設の方に
「どこに行かれるのですか?」
と聞かれると、
「家に帰ります。家はどちらの方でしょう?」
そして、わからなくなり部屋に戻る、そんな日々を繰り返しているようなのです。

「やっぱり、施設での生活は難しいかもしれない」
と思っていたのですが、施設長さんは、
「お父さんのようになる方はいらっしゃいます。しばらく様子を見ているので、心配せずにお過ごしください」
とおっしゃったそうです。

今の状態では、施設長さんに頼るしかありません。
父に対して申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、
「いや、今はこれが一番いいんだ」
と自分に言い聞かせながら、日々過ごしました。

父が施設に入って2か月余り、お正月が来ました。
母は父がいる施設から車で20分ほどのところにある施設でお世話になっていました。
母はいつも父のことを心配していて、「会いたい、会いたい」と言っていましたので、姉の提案でお正月に父の外出許可を取って母の居る施設に連れて行こうということになりました。

当日の朝、姉と私は父の待つ施設へと行きました。

『父は私たちのことを覚えているだろうか・・・』

父はスーツにコートを羽織った姿で施設の玄関で待っていてくれました。
父:「お~、よう来たなぁ。」

「あぁ~~~、覚えていてくれた!」

父:「ところで、今日はどこかに行くんか?」
姉:「今日はお母さんに会いに行くよ」
父:「お母さん? 誰のや? わしの妻か?どんな人やったかいなのぅ?」
姉、私:「・・・・・・ やっぱり忘れてしまったかもしれないね」

車で移動中、父は景色を見ながら「田舎の景色に似ている」と嬉しそうでした。私たちは母のことを繰り返し説明しながら、どうにか母のことを思い出してくれないかと思うばかりでした。

母の居る施設に到着しました。
母:「あぁ~、お父さん!お父さん!元気やった~? 
   私がこんなんで(施設に入ってしまって)ごめんやで」
と父の手を取り涙ぐんでいました。

父:「おっ、おっ、おぉー、わしはげ、元気や」
父は混乱していました。自分に妻がいること、それが目の前の人であることが認識できていません。でも、記憶のかすか遠くに『病院に入院した母を毎日見舞ったこと、施設に入った母においしいものをいっぱい持って自転車を走らせたこと』などが見え隠れしているのです。

コロナ禍でしたので、パーテーション越しに10分ほどの面会時間でしたが、母はパーテーションを避けて父の手を取り話しています。父も混乱しながらも母の話に合わせて話していました。

帰りの車の中で
父:「さっきの人はわしの妻やな?!」
母が父の様子に気付かないわけはありませんが、あまり気付いていなければいいなぁと思いながら帰りました。

それから1か月後、
今度は母の妹(叔母)と甥と3人で母の居る施設と父の居る施設を訪れました。
父:「おぉ~、元気しとったかぁ?」

『あぁ、覚えてくれてる!』

ただし、覚えていたのは私のことだけで、叔母や甥のことは昔話をしても思い出せないようでした。

このころの父は、入所時のように荷物をまとめて「家に帰ります」と言うことは少なくなってきていて、同じ入所者さんの中で将棋ができる人を見つけて対局する日もあるようでした。
少しずつ施設に馴染んできてくれているのでとてもありがたかったです。


この続きは、また次のnote(「父が私をわからなくなった日(5/5)」)で書きたいと思います。


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