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謙虚ブロックを、外せるか〜#自分語りは楽しいぞ〜

みくまゆたんさんの企画、「 #自分語りは楽しいぞ 」を見つけた時、私は「やるやるぅ〜〜!自分語りは楽しいからね!」と思って、コメントで参加します宣言までしてしまった。

でも、いざ書こうとすると、書けない。
私の頭の中でこんな会話が始まった。

私A「自分の人生のどこを切り取れば、自分語りになるの?
何をもって自分とすればいいの?失敗談?成功談?」

私B「成功談って書いたらいやらしいよね…失敗談にしようよ。
自分のダメなところ書こうよ。」

私A「え…なんで?成功談はいやらしいの?なんで自分のダメなことを書くの?」

私B「だって…いいところ書いたら、自慢じゃん。もっと謙虚でいなきゃ。」

…….これだ。

謙虚。
私、そして日本人の多くを阻む、謙虚。

「調子乗ってる」や「自分のこと可愛いと思ってる」が、悪口になる世界。
能ある鷹は、たとえネイルサロン帰りでも爪を隠さないといけない世界。

女子ならこういう経験をしたこともあるだろう。
クラスメイト「〇〇ちゃんって、本当に可愛いねえ〜」
自分「ええ、ありがとう」
クラスメイト「ありがとうって(笑)認めちゃってるよ(笑)」

また、母親が自分のことを謙遜する姿を見たことはないだろうか?
母の友達「〇〇君って、ほんとに勉強ができるわねえ」
母「いやあ〜〜〇〇はねえ、その代わり全然運動ができなくてね〜〜」

クラスメイトにからかわれる。
大好きな母親に、建前とはいえ、他の人の前で貶される。

そんな社会を目にしていたならば、謙虚から自由になれないのは当たり前だ。

自虐は楽だ。多少の痛みに堪えれば。
共感を呼び、みんなと一緒になれる。

でも、この自虐を、自分との対話にまで適用してしまう。
もしそうなら、それはとても、苦しいことではないだろうか。

良いことも、悪いことも、すなわち自分だ。

謙虚のマインドブロック、すなわち「謙虚ブロック」を、外そう。
そうじゃないと、自分は語れない。


そもそも私の場合の、謙虚ブロックが形成された時期を振り返ってみた。
それは高校生の時だ。

私は、高校生の時、勉強ができた。
学年で1位か2位かを取れたこともある。

正確に言うとできたのではない。勉強がすごく好きだったのだ。
特に文系科目、世界史、英語、古典、現代文…また、理系は苦手ではあったものの化学や生物など、楽しいことばかりだった。

今もだけど、何かを知ることが楽しかった。
「知らない」から、「知る」になると、頭の中が、変わる。
頭の中で、オセロがひっくり返るイメージだ。

読書も好きで、高校の図書室にいって、新書や文庫などいろいろな本を読んだ。

勉強が、ただ好きなだけだった。趣味だ。

でも、周りの私への捉え方はそうじゃなかった。
「あなたって、すごく勉強ができるのね。私たちとは、違う。」
そんなふうに、言われたことがある。

「私たちとは、違う。」
彼女は、謙遜のつもりで、私をほめてくれたのかもしれない。
でも…その言葉に、距離を感じてしまった。

孤独。
「できるね」「すごいね」って、ほめられるたびに感じる孤独。

私は、すごくない。
すごくないことを見せようとして、精一杯、自虐した。
「こんなことができない。」「ズボラだ。」「だらしがない。」

周りの人は、多分、笑ってくれた。

でも、なんか虚しかった。
私がやりたいのは、それじゃない。

高校の大部分を占める授業について、休み時間に語りたい。
さっき習ったこの文ってこうだよね〜みたいなことを討論したい。

そう望むと、周りの子たちは、曖昧に笑って、離れていってしまうのだ。


高校2年生の時、学年1位を常に取っている女の子と、友達になれた。
彼女は私なんかより頭が良くて、真面目で、面白くて、大好きだった。

休み時間にさっきの授業について語ることができるようになったのである。

彼女はライバルになった。私はそう思っていた。
同じ勉強をする仲間として、切磋琢磨したい、そして勉強を楽しみたい。
彼女もそう思ってくれると思っていた。

だから、私自身が、学年で1位を取れた時、真っ先に彼女に報告した。
ただ、それを聞いた彼女は、こう言った。

「あなたって、そういうこと、言っちゃう人なのね。私は、言わないけど。」

彼女には、その後すぐに謝罪した。
でも、なんとなく、気まずくなってしまった。
成績だとか、順位の話はしなくなった。
勉強の話も、できなくなって、最終的にクラスは離れてしまった。

彼女は、ものすごく謙虚だった。
その後、先生からも、学年で1番を取っているのに、謙虚だということを、ほめられていた。


やっぱり、謙虚がいいのか。
謙虚であれば、周りとも仲良くなれるし、友達とも気まずくならないし、先生からもほめられる。

再び、私は、謙虚ブロックを、目深にかぶった。


私はその後、1浪の末、慶應義塾大学に入学した。
面白い授業に落語研究会など、4年間大いに大学生活を楽しんだ。
人生で一番良い時期だったと思う。

ただ、卒業後、気軽に大学名を言いづらくなってしまった。

大学名を言うと、「すごいね」「頭いいんだね」と言われてしまう。
距離を感じてしまう。

高校の時と同じだ。

私は、就職に必要だとか、聞かれるまでは、大学名を言わないようにした。
すごいね、と言われた時のために、
「大学はすごいんですけど…私はすごくないんです〜」と言う変な言い訳も思いついた。実際そうだが。

なんで、なんで、そんなこと言わなくちゃいけないんだろう。
勉強が、好きで、知ることが、オセロがひっくり返るこの瞬間が好きで、それが私なのに。

そんな思いを抱えていた時、noteに出会った。
知ることの面白さを、共有すると読んでくれて、面白がってくれる人がいた。

距離を感じるどころか、一緒に共感して、喜んでくれた。

嬉しかった。

ここ、noteだけでは、謙虚ブロックを、外してもいいかな、って思えるようになった。

だから、プロフィールにも、書いた。

「慶應義塾大学出身」
ひらがなばかりのプロフィールに漢字が投入されて、ちょっと読みにくくなった。


これが、私の自分語りである。
最初は、自分語りにおいて、謙虚ブロックを外して語ることを目的としていた。

ただ、「謙虚ブロックを外す」その過程そのものが、私自身だったのかもしれない。

謙虚ブロックを外すと、一瞬だけ孤独になる。
でも、謙虚ブロックを外したのが自分自身なら、それでいいじゃない。

誰か、わかってくれる人、
謙虚ブロックを外したあなたをわかってくれる人は、絶対にいる。

だから、もしみんなと仲良くなるために、自分を下げている人がいたら、ちょっとだけ、自分のいいところ、語ってみませんか。

自分語りは、楽しいぞ。

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