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自由を我らに

X(旧Twitter)に、自分のnoteの記事をあげている。短文系のXと長文系のnoteでは、ユーザーの皆さんの反応が明らかに違う。
個人的には書きたいことを制限なく書けるnoteの方が比較的楽なのだが、Xの制限140文字にピタリ収める快感も格別だ。
毎日(長文を)続けるのは大変じゃないの?とXのフォロアーさんに問われたりするが、書き始めれば(始めるまではネタもないし大変だが)noteの方が、(意識の)流れでやれる分だけ楽なのである。

先日あげた記事に、Xのフォロアーさんからご意見を頂戴した。

職業選択の自由があるように選んだ職業に対する責任がある。 自由と責任は表裏一体という考えの無い人が多すぎる気がします。

@GameofChicken2

今の世の中、責任の方は棚上げし、自由ばかりを主張する人たちが増えているのは、誰もが感じるところだ。
ちなみにこの「自由」という単語の由来は、そもそもなんだろうと気になった。

辞書によれば「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること」とある。自己決定権か。カッコいいじゃないか。
これだと、自分の好きなように振る舞うこと、そうすることができる権利のことを「自由」だと考えている人が出てきても、おかしくはないだろう。

明治時代、西欧から書籍が入ってきたとき、日本人は「西欧の言葉の意味は漢字で表せる」と考え、訳を試みた。
このとき福沢諭吉は「Liberty」や「Freedom」というキリスト教の信仰から生まれた言葉を、どちらも「自由」と翻訳した。しかし両者の意味合いは、微妙に異なっている。

Libertyリバティ」とは「自ら勝ち取った自由」という意味で、「後天的・能動的」な自由を表す。
権利にも似ており、「あなたには◯◯をする自由があります」と表現する際に使われる。
たとえば「liberty of worship(信仰の自由)」は、「rights of worship(信仰の権利)」が行使されていることで実現される、という具合である。

Freedomフリーダム」とは 、周囲から束縛されずに言論・表現・思想などを表明できることや、痛み・苦しみ・差別・飢餓などから解放された状態のことを言う。
辞書には「自由自在、気まま、無遠慮、なれなれしさ、なれなれしいふるまい、解放されていること、(…が)まったくないこと、免除、出入りの自由」とっていた。

当時(明治時代)の列強諸国において自由とは、「イエス・キリストと同じ正しい心で判断したことなら、なにをしてもよい」と拡大解釈されていた。
それは「イエス・キリストと同じ心を持てない人間には自由はない」という思想にもつながり、キリスト教圏以外の国に対し、強制的な不平等条約や植民地支配をすすめる根拠となっていく。

本来のキリスト教の教えである「基本的には社会のルールを守らなければならない」というLibertyやFreedomの成立条件が欠けたまま伝えられたことで、「自由=なにをしてもよい」という「自由のはき違え」につながってしまった可能性がある。

福沢諭吉は社会の常識や身分などに縛られないことを「自由」と翻訳した。「自由」とは、「自らに由る」ものである。

執着から解き放たれた状態である「自由」を、仏教用語では「解脱」と表す。自己の欲望や考えに囚われず無我の状態に至ることが、真の自由であるというのだ。

哲学者カントにとって自由とは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性、つまり意志の自律そのものを指す。
カントにとって人間の理性とは、それ自体がまず実践じっせん的なものであって、普遍的法則(道徳法則)を与えることができるものなのだ。

精神学者アドラーによれば「自由とは、他者から嫌われること」である。
10人の人がいたら、
① 1人は必ず批判する。
② 2人はすべてを受け入れ親友になる。
③ 7人はどちらでもない。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払う。
それがアドラーの定義する「自由」である。

上記はいずれも、個人の生き方・価値観に直結している。あらためて「自由」とは、個人に直結した言葉なのだと知った。

無責任・無節操な支配層がかざす「自由」によって、日本の国にも社会の不自由・抑圧が広まりつつある。
いま僕たちが実践しなければならない自由があるとすれば、「Libertyリバティ=自ら勝ち取った自由」の方かも知れない。

イラスト hanami🛸|ω・)و

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