エンヤトット
僕が住む庵原という地区は、庵原川水系という流域にある。
庵原川流域は自然に恵まれ、南面の丘陵地帯には、縄文・弥生の時代からの遺跡が数多く発見されている。
大化の改新以前は、「いほはらの国」の中心地だった。
律令制(強力な国家体制)の設立から「いほはらの国」は駿河国に組み込まれ、「駿河国廬原郡廬原郷」が設置された。
静岡県内最古の寺院跡の一つと見られる「尾羽廃寺」や、古代の地方官庁としての「廬原郡衙」などが造られたとされる。
『日本書紀』の中に白村江の戦いに臨む百済王の余豊璋の言葉があり、「日本から救援軍の大将として廬原君臣が強力な援軍を率いてくるので、承知して戦ってほしい」と諸将を鼓舞している。
廬原君臣は、静岡市清水地区を中心に本拠とした廬原国造である廬原氏の出身だ。
白村江で倭国水軍は唐・新羅連合軍と4度戦い、倭国の船400隻が焼き払われた。その煙と炎は天を覆い、海が赤く染まったという。
唐の軍艦が陣を敷いていたところに次から次へと倭国の兵が突撃し、両側から挟み撃ちにあって、多くの兵が溺死した。数万の軍はほぼ全滅だったとみられる。
倭国軍(つまり日本の豪族による援軍)はボロ負けした。
多くの歴史書では、唐軍が訓練されて統制のとれた軍隊だったのに対し、倭国軍は寄せ集めで、地方豪族が配下の農民を徴発して連れて行っただけだったことが敗因としている。
当時、中央集権国家の建設を目指す中大兄皇子にとって一番の障碍になっていたのは、伝統的な権益を守るため中央政府の命に容易に服そうとしない、地方の豪族だった。
もし朝鮮半島に大軍を派兵した真の目的が、戦争に勝つことよりも地方豪族の勢力を弱め、中央政府の権力基盤を強化することだったとすれば、そのもくろみは思惑どおりに成功した格好だ。
上記はあくまで一つの説ではあるが、自己保身を最優先し最後まで国益を毀損する今の総理大臣を見ていると、あんた中大兄皇子の末裔かと言いたくもなる。
暴君などは論外としても、せこくて自己保身にだけ長けた人間が権力を握れば、国にとってろくなことはないという教訓を後世にしっかりと残すべきだろう。
閑話休題
おらが庵原では明治から大正時代にかけて茶樹と果樹(みかん)への作物転換に成功し、昭和には「いはらみかん」と全国にその名を広め、現在もみかんを中心に樹園地として全国的に知られている。
なんて話を知ったのもつい最近で、ちょっと前ならどこにでもあって何の変哲もないド田舎くらいの認識だった。
その歴史を縄文文化まで遡ることが出来て、日本の成り立ちを知る貴重な史跡を少なからず残している地であるとは、つゆ知らずいた。
僕のように他所から来た人間はいざ知らず、代々この地で暮らしを営んできた人たちであれば、自分たちの歴史に対してもっと矜持をもって然るべきだろう。
ほんの一部の人にその片鱗はうかがえるが、概して皆さん、ご先祖の話には冷淡というか、無関心である。
では、過去からのDNAは今となって絶えてしまったかと言えば、どうやらハレの場に蘇るものがあるらしい。
天気は少し怪しいが、本日夕方に庵原の祭りが開催される予定だ。
昨年初めて現場を取材し、4時間近くにわたる祭りの模様を録画した。よくもまぁこれだけ集まるもんだと呆れるくらい、会場は立錐の余地なく数100人でごった返し、暑い盛りに熱く盛り上がったものだ。
飾り気のない手作りの催しなど出向かずとも、洗練された「娯楽」なら、街の至る所にいくらでもある。
あえてこういう機会に集結するとは、「娯楽」を求めるよりも先人から紡がれてきた本能に近い心の動きと思えてならない。
毎年1回、清水いはらフェスを主催してつくづく思うのは、何か一つきっかけがあれば庵原の人たちは結束し、大きなエネルギーを生み出すということだ。
多分それは庵原に限った特性でなく、日本のどこでも実現可能な、潜在する民の力と思えてならない。
おかしな為政者によって未来はどんどん望ましくない方へと向かっているが、名もなき民の意識が結集すればいつだって道は変えられるはずと、希望を捨てずにいるのである。
う~ん。
地元の祭りから日本の「神さま」に繋げようとして、またしてもどんどん脱線した。
そこで完全なこじつけになるが、「フォークの神様」による祭りソングを張っとこう。ロバート・フリップに「俺たちの真似じゃない、日本人のロックを聴かせろ」と言われ作った、岡林による和風ロックだ。
この路線はまったくウケなかったようだが、わしゃ結構好きである。
次回、続く。
かどうか、その時にならんとわからない。
イラスト Atelier hanami@はなのす
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