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誰かのベートーヴェン

昭和53年発行の「私のベートーヴェン」という、いろいろな人のアンソロジーを集めた一冊がある。
30年ほど前に古本屋で購入して、何度も拾い読みするうち装丁そうていが破れ、どなたか知らぬが墨でいたらしい表紙のベートーヴェンは、ボロボロになってしまった。

寄稿している人たちの大半は戦争を経験している世代だが、不思議と反戦的な論調のものは多くない。不自由はしたろうし、散々な目にもっているはずが、当時の体制に批判めいたものが散見されないのは、興味深い。
空想でなく、実際に国を背負い戦場に向かわれた先人の、日本人としての誇り高さを教えられるようだ。

回想をつづる人の職業は様々さまざまで、画家や詩人がいれば、医者や学者、元官僚もいる。朝比奈隆も宇野功芳も、一文を寄せている。
文化人で言えば、たとえば俳優の熊倉一雄くまくらかずおさん。初代「ゲゲゲの鬼太郎」主題歌を歌った、あのお方である。

少年はレコードにあきたらず、コンサートへ出かけていく。何度目かのコンサート。オーケストラは、確か日響。指揮者は忘れもしない山田和男氏。今は美しい銀髪を誇っておられるが、当時はフサフサとした漆黒の長髪ふり乱して、烈しく情熱的に棒をふったのが、ベートーヴェンの第七。これは、ただもうショックだった。それまで聞いていたのとは全く違う音楽。胸がギューンとしめつけられて……。日比谷公会堂の、割に前の方の席だった所為もあるのかしら、僕はふるえながら、荒れ狂う音の圧力に身を任せていた。頭がふっとんだような気がして、そして何だか妙に淋しい気がして、僕は公会堂から出た。何かにとりつかれた感じで、帰り途も頭の中で音が噴煙をあげていた。

一徹の大職人(熊倉一雄)

あまり他人ひとさまをうらやむ方ではないが、こういう音楽体験だけは、心底うらやましいと思ってしまう。
きわめて物に乏しい時代、心の飢えと渇きを存分に満たすベートーヴェンの音楽。
全身全霊で浴びる音の至福と戦慄を、残りの人生においてでも、機会あれば味わってみたいものである。

ワルターは八十歳になっていた筈だが、老人くささは見えなかった。誰の手も借りずに一人で舞台へ出てきたし、勿論、立って指揮した。

ベートーヴェンの第二交響曲の第二楽章の弦楽合奏が始まった途端、私の両目から熱い涙が噴き出した。身じろぎもできず、涙が頬をつたい流れるのを止めようもない感動であった。

あの第二楽章の開始の二小節ばかりが、有り得ないような美しさで鳴った瞬間の旋律だけが、全身的な記憶として、ほかのすべてを”無”にしてしまったのだ。
それ以来、私はベートーヴェンの第二交響曲の第二楽章を耳にすることを怖れるようになった。あの感動の記憶が汚されるのがこわかったのである。

ベートーヴェンに育まれて(福永陽一郎)

こんな一文を読んだ後、ワルターの2番を聴かずにおられるものだろうか。
福永氏がナマで聴いた(限りなくうらやましい)ワルターの数十分の一、数百分の一の感動に過ぎなくとも、やはり追体験したくなるのが、人情ってもんである。

実際のところ、ベートーヴェンの交響曲といえば、今は第1番か第2番ばかり聴いている。ワルターはもちろん大好きだが、とくに誰とこだわりはない。
第3番「英雄」から第9番「合唱」まで、聴けばやっぱりすごい音楽だなぁと感嘆するが、毎日フルコース料理ばかりでは身がもたない。
初期の2曲は、厳選された食材による鮭と納豆、きゅうりの漬物、味噌汁に温かいご飯みたいな、定番でありながらも最上級の満足を提供してくれる。

「私のベートーヴェン」は、昭和初期の音楽体験に想いをせる絶好の書であり、自分にとって数少ない現役の読み物だ。他者のベートーヴェンを通じて、時間の経過と共にいつしかそれが、自分の一部になっている。

では、僕にとっても長い付き合いになる、ベートーヴェンの魅力とは何か。あらためて自身に問うてみる。
思い返せば若い頃、足しげく通ったコンサートのプログラムに、ベートーヴェンの曲は驚くほど少なかった。
40に差し掛かった辺りから、ピアノ独奏や室内楽は好んで出かけるようになったが、ベートーヴェンの音楽と向き合うのは、もっぱら自宅のオーディオ装置を通してだったことに気づく。
もしかするとそれは、昭和30年代生まれの愛好家であれば、定番といえる鑑賞法なのかもしれない。(明日に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす

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