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劉昌麺が食いたい

30歳になるまで、明るい思い出があまりない。
とくに10代はひどかった。「死のう」と思ったり実践したりしたことまではないが、「死にたい」とだけは毎日、朝昼晩の隔てなく思っていた。

生き直すことが出来るなら、この時代のあの瞬間に戻ってやり直したい。
たかだか人生を10数年過ごしたばかりの小僧が、そんな取るに足らない悔いを、日常生活の中で何度も繰り返していた。

小学校に上がる時、長男だった父が両親の住む家に引っ越した。それからは僕と弟、両親、祖父母の6人世帯で暮らすことになる。
いわゆる嫁姑よめしゅうとめの関係は、良くなかった。母は早々そうそうに民生委員の仕事を始め、日中を担当地区の恵まれない家庭を回ることで過ごす。それも家にいると嫌な思いをするというのが、本当の動機だったんだろう。
僕が学校から帰っても母の姿はなく、買い置かれたインスタントラーメンを自分で茹でててはすすっていた。
と書くと、傍目はためにはかわいそうな情景に映るだろうが、本人は結構その食生活が気に入っていたのである。

ちなみに当時のお気に入りは明星みょうじょう劉昌麺りゅーしょうめん」で、通常の粉末スープと調理された練りみそ「四川あじ味噌」の2袋入りというのが、実に画期的な商品であった。
1971年発行「暮しの手帖」に掲載された誌面企画「インスタントラーメンのたべくらべ」で、「劉昌麺りゅーしょうめん」は最高点の評価を受けている。実にクセになる味で、ストックがなくなるまで食べ続けても飽きることがなかった(当時から偏食だったともいえる)。
ところが他のインスタントラーメンより2割ほど高い値段が災いしたのか、「劉昌麺りゅーしょうめん」は数年で市場から姿を消してしまう。もうあの味に触れることができないのかと思い、しばらくは傷心の日々を過ごした。
もっとちなみに言うと、大学時代に読んだアブドーラ・ザ・ブッチャーのエッセイでも「劉昌麺りゅーしょうめん」は絶賛されていて、「なぜなくなってしまったんだ」と嘆いていた文章の記憶がある。ホント、そうなんだよねぇ。
アレ、半世紀以上の時を経て、復活せんかな。ぜんぜん本文と関係ないけど。

父は外資系の会社に就職し、日本にいるより海外で過ごすことが圧倒的に多かった。
まだ幼い弟は近所に住むおばが面倒をみることが多く、ジジババも嫌いではなかったが、母との関係からなんとなく近寄りにくく、夜まで一人で過ごす日が多かった。
それでも寂しいと思った事は一度もなく、テレビを視たり本を読んだり、妄想したりしていれば満足出る、根っから孤独好きな子供だった。

(急用入り時間切れ。出掛けにゃならんので明日に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす

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