死の陶酔と臨死状態の光

反復による高揚と差異による陶酔をキーワードとして色々と考えていますが、生命活動に当てはめると、反復のベースになるのは心臓の脈動になります。

そして人間が最終的に迎える大きな差異が「死」です。
では「死」の瞬間に陶酔が訪れるのでしょうか

ここでは、臨死体験をした人が見る光の体験に着目します。

光体験
臨死体験が起こると、まず暗いトンネルの中に浮かんでいる自分に気付き、その次に「光」を見るという体験をする者が多い。この「光」は死んだ肉親の姿や宗教的人物の形をとる事もある。
体験者の多くはこの光に包み込まれ、保護されているという感覚を抱く。この「光」は恋人や家族から感じるものとは比較にならないほどの愛情を持っているように感じられるため、遭遇後に精神的な変容を遂げる体験者が多い。ある体験者は「自分のすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、赦され、完全に愛しぬかれ」たと述べている。
(中略)
アメリカのシアトル研究では、150名の臨死体験者に面接調査を行った結果「臨死体験においてもっとも大きな変化を遂げているのは光を体験した人々」であり「光の経験が深ければ深いほど、変化の程度も甚だしい」と結論されている。また子供の臨死体験者のうち88%が光の体験をしていると報告している。

Wikipedia 臨死体験

臨死体験に関しては立花隆「臨死体験 上・下」に詳しく書かれていますが、光体験について次のように述べられています。

362 (立花)-じゃあ、トンネルの向うに光を見て、向こうに出ると、目もくらむばかりにまばゆい光を見るという体験はどうなんですか。
(モース博士)「実はそこのところがよくわかっていないんです。トンネル体験というのは、視覚機能が失われて視野が狭窄化していく過程だから、その果てまでいけば、むしろ完全に光が失われて暗黒になるはずでしょう。それなのにどうしてまた光を見るのか。どうして暗黒の中で意識が失われ、そのまま人が死んでいくという手順にならないのか。神経学的にはちょっと説明できません。ここのところはむしろ、死後の世界仮説のほうが説明しやすいでしょうね。トンネルの向こうの光の世界は死後の世界なのだと解釈すれば、いかにもぴったりきます。
366 -死にゆく過程がどんどん進んでいくと、やがて、明るさに応じて瞳孔を開いたり閉じたりする筋肉が機能を失って、瞳孔が開きっぱなしになりますね。それで光がドッと入ってきて、まばゆい光を見ることになるという解釈はできませんか。
「それは可能性としてはあり得るかもしれません。しかし、通常、死にかかった人は目を閉じているわけだし、それに目から大量の光が入ったとしても、後頭葉の視覚機能が失われている状態では、その光信号の行き所がないはずだし、と考えていくと、ちょっとどうかなと思います。じゃ他の説明があるかといわれると、何もないというのが現状です。

立花隆「臨死体験 下」

立花隆も疑似的な臨死体験をして、トンネル体験はしていますが光は見ていません。

私が注目したのが2013年の記事ですが、細胞が死ぬ時に光を放つという記事です。

「死」は青い光を放つことが判明
2013.07.30
死にゆく線虫に紫外線を当てて観察することで、死の過程で青い蛍光が放たれることがわかった。この光は次第に強くなり、死の瞬間に最大に達し、直後に消えるという。この研究は、細胞死遅延薬の開発に役立つ可能性もある。

https://wired.jp/2013/07/30/blue-cells-of-death-mark-the-end-of-a-worms-life/

ヒトも、死ぬときに「青い光」を放つ?
2013/7/30 14:00
 死の進行をリアルタイムで分析することは、死を遅らせる方法を理解し、開発するのにも役立つ可能性がある。いずれにしろ、われわれは最期のときに「光」を見るのかもしれない。

https://www.sankei.com/article/20130730-EZ4CXQ74A5NSBF2NMGUZA4NMAM/3/

立花隆の本の発刊が1994年なので、その時点ではまだ青い光のニュースは出ていません。

改めてこの記事から考えると

臨死体験時に見る光というのは、細胞が徐々に壊れ始めていて、壊れた細胞から出る光を(視覚ではなく)脳内で見ていると仮定します。

細胞は一度に全部死ぬわけではなく(動的平衡が崩れてエントロピーが増大していく状態)、徐々に加速度的に壊れていくとすれば、死の瞬間に光が最大に達し、直後に消えることも理解できます。

すると人間が死ぬ時には、細胞死と共に必ずこの光を見て死んでいくようにプログラムされていることになります。
阿弥陀様が光とともにお迎えに来るとも言われていますが、この光なのかもしれません。
映画「風の谷のナウシカ」のラストシーンも思い出します。

一般的な瞑想やマインドフルネスの場合は、このような細胞が壊れる状態にはならないので、光は見えないことになります。

人生の最期に、光に包まれて人生で最高の幸福感を感じながら死んでいく
(そう考えると死の恐怖を少しは減らせる?)。
これが「死の陶酔」とも言えるのではないでしょうか。

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