「食品安全文化」醸成〜労働安全分野とともに
第二次世界大戦中の英国。軍事工場で働く人たちのための食事提供を始まりとし、現在、世界最大となっているケータリング会社であるコンパスグループ。
その日本法人において、私は、2021年8月から3年間、セーフティ責任者として「安全文化」を推進した。
「安全文化」の醸成 〜 食品安全と労働安全衛生の両立
入社当時、「Food Safety フード・セーフティ(食品安全)」と「Personal Safety ピープル・セーフティ(従業員の安全)」の総称としての「セーフティ」という言葉以外に、 「HSE」という用語で「セーフティ」全体業務を表す場合があり、違和感を持った。ちなみに、HSEとは、日本の企業の労働安全衛生分野において使用される場合があるHSE(Health, Safety & Environment)とは異なり、1974年に英国政府により制定されたThe Health and Safety at Work etc Act(業務等上の健康安全法)で規定されているHSE(Health and Safety Executive)と呼ばれる健康安全の行政機関に由来するようだ。HSEでは、さまざまな産業セクター向けの労働安全衛生基準・手順を制定し、事故調査を行う役割を担う。(詳細は、https://hse.go.uk)
日本の食品企業では、食品安全を含む品質管理(あるいは品質保証)を行う部署を設置する企業が一般的であるが、英国の企業では、食品安全と労働安全衛生をセーフティの観点から統合管理し、品質管理は別に設置するという傾向があるようだ。米国の企業も、食品安全と品質管理を別部署とし、食品安全は、よりコンプライアンスの観点から管理を行う部署とする傾向があるように思う。
恐らく、英国では、労働安全衛生分野における科学的根拠をもとづくマネジメント概念の構築・導入が、食品安全のそれより先行したため、HSEという労働安全衛生用語が、労働安全衛生+食品安全を表す言葉として使用され続けたのではないかと思われる。
そういったなか、在任期間中、「安全文化」醸成のための仕組み構築を試みながら、「労働安全衛生分野の枠組みを土台として、食品安全の要素を追加した形での安全文化醸成活動は効果的なのか。それとも、労働安全衛生文化・食品安全文化と別々にアプローチをすべきか。」という疑念がしばしば頭をもたげた。
食品安全文化醸成のための領域要素
「労働安全衛生文化と食品安全文化を、同時に、あるいは、個別に醸成していくべきか。」という疑問に対する答えを導き出す前に、まず少し整理をしたい。
労働安全衛生分野で培われた枠組みや手法を活用しない手はないと思うし、労働安全衛生分野と食品安全分野の両方を同時に着手できる領域もあると考える。
一方で、その領域のなかには、食品安全分野において、より重点的に取り組むべき領域、あるいは、労働安全衛生分野において、より重点的に取り組むべき領域といった違いがあると考えられる。
領域の重みづけを示す前に、まず、文化醸成のための領域要素を明確にしたい。
これら領域に関しては、既に、GFSIのPosition Paperを始めとして、文献で規定されているので、その中から主要なものの例示と、私が考える「企業にとってシンプルな概念で、実行に移しやすい」独自の領域要素を示したい。
<食品安全文化醸成に関する主な文書において規定された領域要素>
“A CULTURE OF FOOD SAFETY - A POSITION PAPER FROM THE GLOBAL FOOD SAFETY INITIATIVE (GFSI)”:
2018年にGFSI(Global Food Safety Initiative)より発行された文書。当該文書作成のためのTWG(Technical Working Group)の議長を務めたLone Jespersenは、食品安全文化に関する先行文献の整理を行った論文を発表している。この文書のコンセプトは、その論文と同様であることもあり、網羅的な内容となっている。また、オーストラリア・ニュージーランド等、国が規定している文書等、この概念を参照して規定しているケースが多い。
・Visions and Mission(ビジョン&ミッション)
・People (人々)
・Consistency(一貫性)
・Adaptability(適応可能性)
・Hazard and Risk Awareness(ハザード及びリスク認識)
PAS320:2023 Developing and sustaining a mature food safety culture - Guide:
2023年、BSI(英国規格協会)から発行された文書。ISOのハイレベル・ストラクチャーをベースに策定されている。そのため、領域というよりも、醸成のためのプロセスを章立てにしているが、参考までに引用することとする。
策定にあたり、BSIのPAS規格策定プロトコルに則り策定されているが、前述のLone Jespersenが監修を、BSIのAna Cicolinが執筆している。Ana Cicolinは、私がBSIでISO22000 Global Scheme Managerをしていた際、FSSC22000のGlobal Scheme Managerをやっていたブラジル人で、非常に頭のいい、仕事のできる同僚であった。そのこともあってか、当PAS320は非常に緻密な作りになっており、部分的に参照するには有効であると思われるものの、一般的な企業が要求事項を理解し、マネジメントシステムとして適用させるにはハードルが高いものになっている。
4章:食品安全文化の基礎及び組織の状況の理解 Understanding the fundamentals of a food safety culture and the context of the organization
5章:食品安全文化のためのガバナンスの確立 Establishing the governance for a food safety culture
6章:組織の食品安全文化の理解 Understanding the organization’s food safety culture
7章:期待される食品安全文化を達成するための戦略的変革計画の策定 Designing a strategic change plan to achiebve the desired food safety culture
8章:食品安全文化の主な機能の策定 Preparing the key functions towards a food safety culture
9章:既存のFSMSに組織の食品安全文化の変革計画の組み込み Embedding the change plan of the organization’s food safety culture into the existing FSMS
10章:組織の食品安全文化のパフォーマンス評価 Evaluating the performance of the organization’s food safety culture
11章:組織の食品安全文化の継続的改善の維持 Sustaining the continual improvement of the organization’s food safety culture
CXC 1-1969 GENERAL PRINCIPLES OF FOOD HYGIENE:
2020年コーデックス委員会のよって追加された食品安全文化に関する項目である。食品事業者の経営層が取り組むべき項目として、食品安全文化の醸成について規定されている。
5.1 Management commitment to food safety
The following elements are important in cultivating a positive food safety culture:
- commitment of the managemnet and all personnel to the production and handling of safe food;(コミットメント)
- leadership to set the right direction and to engage all personnel in food safety practices;(リーダーシップ)
- awareness of the importance of food hygiene by all personnel in the food business;(認識)
- open and clear communication among all personnel in the business, including communication of deviations and expectations; and (コミュニケーション)
- the availability of sufficient resources to ensure the effective functioning of the food hygiene system (資源投入)
<私が考える食品安全文化醸成の領域要素>
① ビジョン等組織の方向性の決定・周知、資源投入を含めたマネジメントの関与
② 全関係者のリスクの認識
③ 全関連職位・職種における食品安全に係るコンピテンシー
④ 食品安全を達成するための業務ルール及びそれにもとづく成果が出るための仕組み
⑤ 安全重視の環境ー立地・インフラ・設備・機器・器具及びその構成等の物理的要素
⑥ 安全重視の環境ー心理社会的要素及び作業環境
⑦ 指標及び手法の妥当性確認
安全文化醸成の領域の重みづけ
前述のように、食品安全文化を醸成するための領域を7つ設定したが、労働安全衛生文化についても、この領域で取り組めると考える。
食品産業でもセクターが異なれば多少異なる可能性もあるが、概ね以下のような重みづけができるのではないかと考える。
食品安全文化醸成:②③の領域要素で重みづけ
労働安全衛生文化醸成:⑤⑥の領域要素で重みづけ
食品安全の場合、自分が業務を遂行する上で、⚪︎⚪︎を怠ると消費者に対してどのような結果につながるかというリスクをそれぞれの関係者が、それぞれの立場での知識・認識を持ち、危機感を持って業務を遂行することが重要であると考える。労働安全衛生の場合、事故につながる等、自分や同僚の身に危険が及ぶというのは、食品安全に比べ、ヒヤリハット等、感覚的に捉えることが可能な場合が多いのではないかと考える。
食品安全に関しては、健康被害がその場で起こるわけではなく、消費者という多くの場合知らない人である人が食品を摂取した結果、事故が発生するため、常に危機感を持ち対応することが重要であると考える。
また、コンピテンシー(力量)は、教育を受けて知識を持っているというだけでは、コンピテンシーを有するとは捉えられない。まずは教育等により自分が実行しなければならない安全業務の知識を持つことが前提である。食品安全の場合、一部の人のみが知識を有するという状態に陥りやすいと言われている。*1
まずは、業務上必要な知識を習得する。そして、その知識を行動として実行にうつし、結果を出せる力があることをコンピテンシーと呼び、その力量が必要である。
このコンピテンシーは、現場で業務を行う人員だけでなく、例えば、マネジメントに求められるコンピテンシーもある。報告された内容を安全の観点からの理解と、それに対する対応策の承認・指示、また、必要な資源の投入等のコンピテンシーが求められる。
一方で、労働安全衛生分野では、安全重視の環境に重みづけされると考える。安全装置付きの機器導入やPPE使用、作業環境の改善、そして、心理社会的要素を考慮した制度の確立を果たせば、ほぼ重要な部分の構築が可能となると考える。
また、この安全重視の環境を実現する心理社会的要素は食品安全文化の醸成にも大いに参考になると考えられる。
次回の記事では、働く人のメンタルヘルスに関する指針として初めての国際規格であるISO45003:2021 労働安全衛生マネジメントー職場における心理的な健康及び安全ー心理社会的リスクの管理のための指針に関しての考察も加えた上で、食品安全文化と労働安全衛生文化との合体による効果の確認をしたいと考えている。
また、今後、PAS320 8章に記載されているナッジ理論他、文化醸成のために活用できる行動科学理論についても調べていきたいと考えている。
*1:
Food safety vs health and safety - Strong alignment or clear blue water?
Denis Treacy, Chris Gilbert-Wood, Andy Kerridge, Louise Manning and Rachel Ward
Food Science and Technology / Volume 35, Issue 4 p.15-19
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