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大人になるということ

なりたいものになれる
小学生の頃は純粋にそう信じていたから将来なりたいものも沢山あったし明るい未来を描けていた。

小学生の頃は自慢じゃないが頭が良かった。学校の勉強で困ることなんか一度もなかったしテストもほぼ全部満点。そんな背景があったのと自分の意思が重なって中学受験をすることにした。勿論大変なこと、辛いこと、上手くいかないことが一杯あったけれど結果を見たら大成功だった。所謂超難関校の大学附属中学の合格を勝ち取った瞬間は人生が輝いていた。

中学入学を機に私の人生は大きく変わる。曲がりなりにも偏差値70あった人間として自分の学力にはそれなりの自信があった。しかしその自信は一瞬にして消えた。周りが凄すぎたからだ。難しい問題をスラスラ解き、その上そこらの教員より分かりやすく教えてくれるような天才がゴロゴロいた。自分は天才ではなく、かつてほんの少しだけ優れていただけで大したことない人間だと気づいた瞬間、あれが私の最初の挫折だった様に思う。

高校は勉強ももちろんだが部活、学校行事で忙しくしていた。部活では主務を任されてはいたが大会、試合で大きな結果を残すことは出来なかったしエースになることはついに叶わなかった。真剣に取り組んでいたしそれなりの努力を積んだが実らなかった。「努力は裏切らない」そう信じることが出来なくなった。
私の学校には演劇会と文化祭という大きな二大行事があり、非常に盛り上がるものだ。それ自体はとても楽しいものだったが同時に私を苦しめるものにもなった。製作が伴う行事である以上まず活躍する人は芸術の才能がある人だった。絵を描ける、デザインができる、小道具を作ることが出来るなどわかりやすい芸術の才能を持った人がクラスには沢山いた。昔から絵がからきしだった私はそこで活躍することは当然出来なかった。その上表に立つ役回りを担えるほどの度胸もなく、誰にでもできる範囲の手伝いをしてクラスや団体をサポートすることしか出来なかった。
小さい頃から頭がいい人は家の文化資本が高い傾向にあるのは事実だと思う。だからこそ中高で最上位クラスの学力を持った人間が集まる学校には勉強以外の強みを持った人が以上に多い。彼らが勉強しかできない人間だったら私の挫折は大したものではなかっただろう。ただ彼らは勉強に加えて輝くものを持っていた。スポーツがとても得意な人、芸術面に秀でた人、人をまとめることが上手な人、普通ならクラスに1人いれば奇跡のような存在がクラスのほとんどだった。その環境で私のような何もない人間には何ができるだろうか。彼らじゃなくてもできることをするしかなかった、誰でもいいような誰にでもできる簡単なことをするしかできなかった。
そんな環境で生きていくと、次第に心がすり減っていくのがありありと感じられた。

「お前には何も無い」、「お前である必要は無い」、「お前がいなくても何も困らない」そんな現実を突きつけられてなお自分に価値を見いだせるほど強くはなかったし阿呆でもなかった。
自分に何もないことをただただ痛感させられる日々だった。

今のままの自分を肯定する感情を自己肯定感と定義するならば、私には自己肯定感の欠片もない。この社会において私を肯定できる要素が一個もないからだ。

勉強が驚くほどできる訳でもない、一芸に秀でてもいない、強いリーダーシップを持っている訳でも無い人間をどう肯定すればいいのだろう。自分の上位互換しかいない環境で生きてきて、そんな中で劣ってる私に価値を見出すことができるならどんなに良かっただろう。私は大して頭が良くないが、自分に盲目になれるほどの馬鹿でもなかった。

自分の核もよく分からない人間にとって個性を尊重する社会はまるで地獄だ。個性を尊重することはもちろん大切で自分と異なるものを排斥しない世界は素晴らしいものであると感じている。その一方で個性が微塵もない人間の逃げ道がどんどん封じられている世界になってきている様にも思う。

中高生という多感な時期に大きな挫折をして立ち直れなかった私は今後どう生きていくべきなんだろう。価値のない自分を自覚しながらどう幸せになる未来を描けばいいのだろう。夢どころか目標すら抱けなくなった私に生きている価値はあるのだろうか。
何もないことを自覚しながら今後生きていくことが不安でたまらない。明るい未来を信じることなどできない。そんな中で何を支えに生きていけばいいのだろう。
人生に対する疲労からか感情の振れ幅が小さくなり、感情の起伏が少なくなったつまらない人間が誰に愛され価値を見出されるというのだろうか。

辛い。もう生きていたくない。
消えてなくなりたい。


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