人規十七則
十三、義を楽しむ
人規十七則
一、人間がはじめてこの世界に生み出された当初から、すでに誰もが平等に仁・義・礼・智といった本性を与えられていた。
ニ、不義不善を恥じ憎む羞悪の心がないのは人ではない。羞悪の心は義の萌芽である。
三、「仁・義・礼・智」は『孟子』で強調される四徳である。朱子はそれを天の理として分け与えられた絶対善としての「性」と考え、その具体的な実現が惻隠(あわれみ)・羞悪(はじにくみ)・辞讓(へりくだり)・是非(ぜひ)の「四端の心」であるとした。本性は心となって発揮される。
四、人間に、傷ましく思う惻隠の心・不義不善を恥じ憎む羞悪の心・他人に譲る辞譲の心・是非善悪を判断する是非の心の四端があることは、あたかも両手両足の四肢があるようなものである。四端がありながら、仁義礼智を行うことができないというのは、自暴自棄というものである。自分に四端があるからは、これを拡大して充実し、仁義礼智の徳を完全にすることを理解できる。
五、自分は仁義によって行動することができないと決めてかかる者を、自棄という。義は人の正しい道であるのに、正しい道を捨てるのは、情けないことである。
六、安宅、すなわち仁を守ることこそ最も安心の住み家であるのに、その安らかさに気づかず、正路、すなわち義を行うことこそ最も正しい道であるのに、その正しさに気づかずに生きているなら、結局は自暴自棄の人間に陥ってしまうことを免れない。悲しいことである。
七、天下の大道である義を歩み、志を得て世に用いられれば、天下の民とともに正道を行い、志を得ないときは、自分一人で道を行うのみである。いかなる富貴も我が志をとろかし乱すことはできず、いかなる貧賤も我が志を変えさせることはできず、いかなる威武も我が志を屈服せしめることはできない。
八、人々との交際では信義の徳にとどまってそれを標準とする。
九、人間には三段階がある。最下の段階の人は、行為が道義に合わず、信でない。すなわち言うところを遂行しない人である。中の段階の人は、言ったことは必ず実行し遂行するが、その行為が道義にかなうとは決まっていない人である。上の段階の人は、言ったことを必ずその通りに遂行するとは限らず、行為が道義にかなっているか否かを考え、道義に従って行動するのである。中の段階の人でさえも、なかなか見つからないが、上の段階の人を目標としなければならない。
十、君子の行為行動は、すべて義に合っているか、合っていないかのみを問題にする。後で禍いがあるかないかは問題にしない。もし後で禍いがありはしないかと心配するあまり、人に不善のところがあっても黙っているのは間違っている。
十一、非礼の礼、非義の義、すなわち道義から出るものでない、まがいものの礼や義が、世間には極めて多い。大道を知らないと、自分では気づかずに礼義の正しい筋を失ってしまうことが多い。大道を会得するのでなければ、大人となることができない。
十ニ、君子が天下のことに対するには、逆らうこともなければ、愛着することもない。主観を去ってただ正義に親しんでゆく。
十三、礼はへりくだることを主眼とするものであるから、進んで仕える時には、礼をもって自分のはやる心を抑えるようにする。義は断固たる処置を主眼とするものであるから、退くにあたっては、義をもって自分の心の恋々さを断つようにする。そうすれば、進むにあたって進みがたく、退くにあたって退きやすくなる。
十四、古代の聖王が国家を統治したときには、不義の者は富まさない、地位を高くしない、親愛しない、側近にしない、と宣言した。為政者の人民を用いる方策が、義の一点のみに絞られていたのである。皆が競争して義を実行するようになった理由は、要所を押さえた一点にこそある。
十五、万人の心が承認するもの、それは理、すなわち根本の道理と、義、すなわち正義である。道理と正義とが心を喜ばせることは、美肉が口を喜ばせることなどと比較されることではない。この喜びは、どこに行っても、どこにいても、常に自分にしたがってくることであって、飢えていても食べることを忘れ、渇していても飲むことを忘れ、寒くても着ることを忘れ、寝ても眠ることを忘れる。道理と正義の楽しみにまさるものはない。
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