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人規十七則

二、道を得る

一、身を修めるには正しい道によるべきである。
朝に正しい真実の道が聞けたら、その晩に死んでもよい。

ニ、天の命令によって、人が先天的に具えるものを性すなわち生まれつきという。人それぞれ天性の自然に従い行うべき道がある。これがすなわち道である。

三、道というものは、いつでもどこにでもあるもので、ほんのしばらくの間も人から離れることのないものである。離れるようなものは、真の道ではない。

四、物事には根本と末端とがあり、また初めと終わりとがある。何を先にして何を後にすべきかということがわかるなら、それでほぼ正しい道を得たことになる。

五、道とは、仁・礼・義のことである。広げると天地の間に満ち、小さくすると、心のうちに隠れてしまう。この道において、修養を積まなければならない。心の底から道を求めようとするものは上であり、名誉利益を得るためにするものは下である。

六、世界中いつでもどこでも通用する道として五つのことがある。君臣の間の道、親子の間の道、夫婦の間の道、兄弟姉妹の間の道、友人との交際の道である。
自分を子として自覚する時、親に対する道がある。親として自覚する時、子に対する道がある。夫として自覚する時、妻に対する道がある。妻として自覚する時、夫に対する道がある。

七、正しい道を行っていれば自然と協力者が多くなるし、正しい道を失うと協力者は少なくなる。協力者の少ない極端な場合は、親戚の者すら離反するし、最も協力者の多い場合は、天下が残らず従う。

八、人の人たる道は、高く美しく、また簡約で身近なものである。しかし人々は、道の高く美しい面だけを見て、初めから自分にはとても及び難いものであると思い、道が簡約で身近な、親しみやすいものであるということを知らない。富貴貧賤、安楽艱難など、身の回りが様々に変化しても、ただ一つの態度でこれに対し、いかなる境遇に居ても意識しない。これは、道というものが、簡約であり身近なものであるからに他ならない。人々は、心が富貴によって堕落し、貧賤によって変えられ、安楽に耽り、艱難に苦しんで、平素の心がけを失っている。

九、人と禽獣が異なっている点は、人間として守るべき道を守っているか、守っていないかということ以外にはない。これを失ってしまったものを衆人、努力してこれを得たものを君子、自然にこれを身に持っているものを聖人とする。衆人でも、努力すれば君子となれるし、努力が実ると聖人となる。

十、君子は人の道によって人を治め、改めるべきところを改める。君子はいつも道を思って公明正大、曖昧な隠し事などは避けて内なる己自身を謹慎して修めるのである。

十一、うやうやしく人にへりくだり、学問を好み、人望があった人物が、権力をほしいままにするようになっても、急には交際を絶つことが難しい。明智の人物は、その人物を当初において見抜いて交際せず、果断の人物は、その人物の罪悪があらわれた時に交際を絶つ。もしこのいずれかの道を失ったなら、節義を誤って生涯悔いることになる。

十二、どんなことにも拘泥することなく、心は澄んだ鏡の面のごとくで、あらゆるものに順応する。道をもって交わろうとするならば、その道をよろこんで交わり、礼をもって接しようとするならば、その礼をよろこんで接する。昨日、道や礼がなかったとしても、今日、あるならば、その道や礼をよろこび、昨日の無道や無礼をとがめることなく、明日、無道や無礼をしむけないかと予測することもない。公平弘大の態度である。

十三、「経」すなわち聖人の、人間永遠の道を説いた教えを尊びつつ、同時に「史」すなわち人間の正邪・真偽が相闘いつつ興亡盛衰を繰り返してきた歴史を学ぶ。経は我々に、人間の不滅の理想を教えるものであり、史は我々に、人間の具体的な姿を示すものである。経史を合わせ修めて、初めて理想を具現する道が得られる。

十四、君子の踏み行う道は人目をひかないで、日に日に真価があらわれてくるが、小人の道は人目をひきながら、日に日に消え失せてしまう。君子の踏み行う道は、あっさり淡泊でありながらいつまでも人をひきつけ、簡素でありながら文彩があり、穏やかでありながら条理がたっている。

十五、徳と道という、天下無双の霊宝がある。この宝を用いて、心に守り身に行う。この宝は上は天道に通じ、下は四海にあきらかである。この宝を用いて、親子・君臣・夫婦・兄弟姉妹・朋友の五倫に交われば、五倫すべて和睦する。天下は平らかになり、国は治まり、家は斉い、身は修まり、心はあきらかである。

十六、堯・舜の道を根源として受け継ぎ、文王・武王の道を模範として顕彰し、上は天の季節のめぐりにのっとり、下は地上の山川風土のあり方に従う。その徳は、大地がすべてのものを載せ支え、天がすべてのものを覆い尽くし、四季の季節が互いに順序よく巡り、太陽と月とがかわるがわるに輝き照らすようである。

十七、君子が上にいて小人が下にいるなら、平世の道であるが、小人が上にいて君子が下にいるなら、乱世の道である。乱は兵乱のことでなく、平は五穀がよく実ることではない。君が君の道を尽くし臣が臣の道を尽くし、親が親の道を尽くし子が子の道を尽くす時、天下が平らかであるというのである。


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